FC2ブログ
AX

Entries

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


不幸でいること、いや、不幸に浸ることは簡単で、
幸福になることは困難だけど、さらにいえば、「幸福」に留まることと「興奮」を求めることは異なる。

人生は壮大なる暇潰しだ。とこれまで迂回では何度も書いてきた。

暇は、ガチンコ真剣でないと、潰れない。趣味ごときでは潰れない。

弱き者は敗れる。が、ガチンコ真剣勝負できるフィールドは一つではなく、数千、数万ある。

例えばスポーツだけでも様々なものがあり、同じスポーツでも様々なポジション・役割がある。仕事も同じだ。

どのフィールドで、どのポジション・役割で、自分が活かせるか、楽しめるか、そして勝てるか、それらを考える、額の内側に汗をかく者だけが、暇を潰せる。

最大の敵は「退屈」だ、と最近読んだのは、漫画『東京喰種トーキョーグール:re』だったか。

スポンサーサイト


「正確な自己評価などというものはこの世に原理的に存在しない。」「人間は自分のことは適切には評価できない。」
(温尻 2010.12.20)

内田樹氏ブログ「甲野先生の最後の授業」

甲野善紀先生を本学の特別客員教授にお招きして3年。この年度末で任期満了となる。
甲野先生の講習会は全級一斉という指導法はなされない。ひとりひとりが自分のペースで、自分の選んだ課題を試みる。
授業なのだが、点数はつけない。
もちろん教務的には成績をつけていただかないと困るのだが、甲野先生の授業の成績は「自己申告」制である。遅刻早退しても、でれでれさぼっていても、自分で成績表に100点と書き込めば100点をつける。

ただし、と先生は笑いながら告知していた。
「そういうことをすると、あとで別のところで『税金』をきっちり取られることになるからね」

おっしゃる通りである。
他人の監視や査定を逃れることはできるが、自分が「成績をごまかすような小狡い人間だ」という自己認識からは逃れることはできない。

他人を出し抜いて利己的にふるまうことで自己利益を得ている人間は、そういうことをするのは「自分だけ」で他人はできるだけ遵法的にふるまってほしいと願っている。
高速道路が渋滞しているときに路肩を走るドライバーや、みんなが一列に並んで順番を待っているときに後ろから横入りする人は「そんなことをするのが自分だけ」であるときにもっとも多くの利益を得、「みんなが自分のようにふるまう」ときにアドバンテージを失うからである。だから、彼らは「この世に自分のような人間ができるだけいないこと」を願うようになる。論理的には必ずそうなる。

その「呪い」はまっすぐ自分に向かう。
「私のような人間はこの世にいてはならない」という自分自身に対する呪いからはどんな人間も逃れることはできない。そのような人は死活的に重要な場面で必ず「自滅する」方のくじを自分の意志で引いてしまうのである。

しかるに、「自分のような人間は自分だけである方が自己利益は多い」という考えを現代人の多くは採用している。
「オリジナリティ」とか「知的所有権」とか「自分探しの旅」とかいうのはそういうイデオロギーの副産物である。

けれども、「オリジナルであること」に過大な意味を賦与する人たちは、そのようにして「私のような人間はこの世にできるだけいない方がいい」という呪いを自分自身かけているのである。
「私のような人間ばかりの世界」で暮らしても「平気」であるように、できれば「そうであったらたいへん快適」であるように自己形成すること、それが「倫理」の究極的な要請だと私は思う。「世界が私のような人間ばかりだったらいいな」というのが人間が自分自身に与えることのできる最大の祝福である。

でも、これはむずかしい課題である。
ふつうの人は「世界が私のような人間ばかりだったら」気が狂ってしまう。他者のいない世界に人間は耐えられないからである。だから、論理的に考えれば、「私のような人間ばかりでも平気な『私のような人間』」とは「一人の人間の中に多数の他者がごちゃごちゃと混在している人間」だということになる。一人の人間のなかに老人も幼児も、お兄ちゃんもおばさんも、道学者も卑劣漢も、賢者も愚者も、ごちゃごちゃ併存している人間にとってのみ、「自分みたいな人間ばかりでも世界はけっこうにぎやかで風通しがいい」。
倫理的とはそういうことだと私は思う。

甲野先生の成績を自己申告でつけるときには「えええ、どうしたらいいんだろう」と迷ってしまうというのがたぶん適切なふるまい方なのだと思う。自己評価よりちょっと高めに点をつければあとで「自分は狡い人間なのでは」とくよくよすることになる。自己評価よりちょっと低めに点をつければ、「自分は過剰に謙遜するイヤミな人間なのでは」とこれまたいじけることになる。

ではどうすればいいのか。
別にむずかしいことではない。
甲野先生の自己申告制では、成績表に点数を書き込むのは自分だけれど、他人に評価を求めることは禁じていないからである。
自分の点数を知りたければ、あたりを見渡して、「人を見る眼」がありそうな人を探せばいい。そして、その人に「私は何点くらいかな」と訊けばいい。
あなたに「人を見る眼」があれば、その問いにきちんと適切な解答をしてくれる人を過たず探し当てることができるはずである。

正確な自己評価などというものはこの世に原理的に存在しない。
「正確な自己評価が出来ている人」が存在するように見えるのは、その人が「自分についての適切な外部評価を下してくれそうな人」を言い当てる能力を持っているからである。

人間は自分のことは適切には評価できない。
でも、「私のことを適切に評価してくれる人」を探し当てることはできる。自己評価とはその能力のことを言うのである。

そのことを知っただけでもこの授業に出た甲斐はあると思う。
それくらいむずかしい課題を甲野先生は出しているのである。


疲れすぎて眠れぬ夜のために (角川文庫)
内田 樹
角川書店
売り上げランキング: 78,727



「こころ」とは何か?
(温尻 2010.12.26)

橘玲の最新刊『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』は面白かった。
けれど、進化心理学に依拠しすぎじゃないか。理論って、いろんな事象を説明するのに便利な道具、くらいの認識じゃないと、安易に着地しちゃってイクナイ。斎藤環だって「ラカンの理論は『便利で使い勝手がいい』のだ」と。
「お金は使うものであって、使われてはならない」って言われるのに、理論については同じように言われない。おかしい。同じなのに。(ちなみに“論理”ですら同じだ)

面白かった箇所から抜粋。

こころとはなにか?
イギリスの心理学者ニコラス・ハンフリーは、この謎にものすごくシンプルなこたえを見つけた(『内なる目』)。
相手の気持ちを映す鏡を自分のなかに持つこと。これがこころの機能だとハンフリーは考えた。
そして、ぼくたちは相手のこころを日常的に読み取っている。そこから自分のこころを構成する。この高度化したシミュレーション機能が自意識、つまり「私」なのだ。




憲法改正に関する提言
憲法改正に関しては様々な論議があるが、ぼくが提言したいのは一点のみである。

憲法22条2項は国籍離脱の理由を規定している(「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。」)。

にもかかわらず、毛髪離脱の自由を規定していないというのは一体どういう了見なのか。

「平和憲法であったがゆえに日本はこれまで戦争に巻き込まれなかった」という立論が可能であるなら、「毛髪離脱の自由さえ規定されていればハゲがここまで馬鹿にされることはなかった!」との立論もまた可能である。

よって、憲法改正の際には絶対に「毛髪離脱の自由」を規定しなければならないという結論が必然的に導かれる。

(・∀・)

孫正義氏はツイッターで「髪の毛が後退しているのではない。私が前進しているのである。」との至言を残している。

なんならこの文章を憲法前文の前に導入することも検討してはどうだろうか。

いや、まぢで。





「私たちは自分が欲するものを他人にまず贈ることによってしか手に入れることができない。」
(温尻 2010.12.25)

内田樹氏ブログ「自立と予祝について」

私たちは自分が欲するものを他人にまず贈ることによってしか手に入れることができない。

それが人間が人間的であるためのルールです。今に始まったことではありません。人類の黎明期に、人類の始祖が「人間性」を基礎づけたそのときに決められたルールです。親族の形成も、言語によるコミュニケーションも、経済活動も、すべてこのルールに準拠して制度化されています。

繰り返します。私たちは自分が欲するものを他人にまず贈ることによってしか手に入れることができない。

祝福の言葉を得たいと望むなら、まず僕の方から「あなたにはいつまでも幸福でいてもらいたい」という言葉を贈らなければならない。まず贈与するところからすべては始まる。

というようなことを書くと、「贈与するも何も、僕は赤貧であって、他人に与えるものなんか、何もありません。それよりまず僕に何かください」と口を尖らせて言う人が出てくるかも知れません。
でも、残念ながら、「そういうこと」を言う人は、その言葉によって自分自身に呪いをかけていることに気づいていない。
そういう人はそのあと仮に赤貧から脱することができたとしても、「私は十分に豊かになったので、これから贈与をすることにしよう」という転換点を見出すことができません。いつまでも「貧しい」ままです。そこそこの生活ができるようになっても、「世の中にはオレより豊かなやつがいっぱいいるじゃないか(ビル・ゲイツとか)。贈与なんて、そいつらがやればいいんだよ。オレには家のローンとかいろいろあるんだから・・・」そういうふうにしか言えなくなってしまう。
それが「まず僕に与えてください」と言ってしまった「自分に対する呪い」の効果なのです。

他人に贈与しない人は誰からも贈与されることがない。その人は自分が必要とするものをすべて自分で手に入れなければならない。

自分は誰からも贈与なんか受け取ったことはない、だから誰にも贈与しない、というふうに考える人は、つまり「受け取るだけで、次にパスを出さない人」は贈与と返礼のサイクルからしだいに押し出されて、周縁の「パスの通らないエリア」に位置づけられることになります。もちろんそこでも基本的な社会的サービスは受けられます。でも、その人宛てのパーソナルな贈り物はもう誰からも届かない。

ですから、「自分は貧しい」と思うなら、そのような人こそ贈与と返礼が活発に行き交っている場に身を置くべきなのです。どれほどわずかであっても、手持ちの資源を惜しみなく隣人に贈る人はこのサイクルにおける「ホット・ポイント」になります。贈与と返礼のサイクルはこの「ホット・ポイント」に資源が集中するように制度設計されています。

それはボールゲームで「受け取ったボールをワンタッチで予想外の多彩なコースにパスするファンタスティックなプレイヤー」のところにボールが集まるのと同じ原理です。受け取ったボールを決して手離さないプレイヤー、受け取ったボールをつねに同じコースにしかパスしないプレイヤーにはそのうち誰もパスしなくなる。

いつもの話だけれど、この考え方がいつか常識に登録されるまで、私は同じ話を繰り返すつもりである。




花に染む
花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身に

西行



笑い飯の優勝は、日本国民の総意に基く。
(温尻  2010.12.28。懐かしいエントリだな...)

2002年の第2回M-1グランプリで初めて決勝に進出した笑い飯は、最終的に9年連続で決勝進出を果たすことになるのだが、その成績は、3位-2位-5位-2位-4位-5位-4位-2位-1位(優勝)と、6位以下になったことがない。

笑い飯は西田幸治を、スリムクラブは真栄田賢をと各組が異形を抱えており、それが我々に衝撃を与えるわけだが、笑い飯の成績の安定感は、異形としては一見奇妙なように思える。

アンタッチャブルが第3回M-1グランプリで敗者復活戦から勝ち上がって最終決戦に進出し(3位)、その翌年に“化けて”他組を圧倒したのと同じように、仮に今年ジャルジャルが最終決戦に選出されていたらその後間違いなく化けることになったはずであると断言してもよいが、そんな彼らとは対照的に、笑い飯はその初登場以来、洗練はされても、化けてはいない。化けて生まれてきた異形は、そもそも化けることが不可能なのである。
奇妙な安定感は、異形の宿命といえる。

だから、笑い飯の優勝は、原理的に初登場の第2回においてのみ可能であったといえようし、スリムクラブもやはり今後化けることはあり得ないがゆえに彼らが優勝するチャンスもまた(仮に来年以降M-1が継続されたとしても)今年しかなかった。

そして、今年スリムクラブを優勝させることは十分に可能であったし、もしそのような結果になっていてもぼくが異議を唱えることはなかっただろう。

しかし、ここで考えてみる必要がある。
今年スリムクラブに優勝させる、つまり笑い飯を優勝させないということは、審査員がM-1グランプリ10年の歴史から何かを学んだということを証明しはしたであろうが、年中行事の如く毎年末ただ淡々と異形であることを示し続けてきた笑い飯に対する我々の深い敬意及び謝意を表明する機会を審査員が奪うことになりはしなかっただろうか。そしてそのような権利を奪われてしまった我々がスリムクラブに対して潜在的にすら敵意を抱かなかったはずだと一体誰が保証できようか、ということを。

異形の安定に敬意を払う、それは、天皇制を維持し続ける我々日本国民に心髄として存在する。

優勝者を選択する際、苦渋の表情を浮かべながらも自身はスリムクラブに一票を投じつつ、島田紳助は松本人志のボタンを勝手に押して笑い飯を優勝させたとの巷間の噂が真実なのだとすれば、我々は島田紳助を、笑い飯、スリムクラブ、M-1、お笑い、そして日本国民を同時に救った救世主として扱うべきであり、同時に彼はそのことによって10年の長きに渡りその顔にぺたっと貼りつかせ続けた恥辱をようやく最期に拭ったのだと解釈する以外に、どのような解釈が可能なのだろうか。

大相撲の立合いを初めて観たフランスの前衛芸術家ジャン・コクトーが思わず呟いてしまったように、「バランスの奇跡…」と、島田紳助及びそのとっさの行為を畏怖することが許されこそすれ、戦犯として罵倒するなんぞ世界に冠たる超成熟国家の民として決してあってはならぬ非文明的振る舞いである。

ガジェット通信「『M-1』で優勝にふさわしいと思うのは?」の結果が、34.6%笑い飯、16.2%スリムクラブと出たことからも分かるように、笑い飯の優勝は、日本国民の総意に基くものである。


参照条文。
日本国憲法 第一条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。


『ネタバレ/M-1グランプリに追記。



「消費は交換のシステムであって言語活動と同じである」
また山口周氏ブログデザインコンピテンシーが企業価値を左右する

簡単に言えば、ジャン・ボードリヤール(ポストモダンを代表する哲学者)は『消費社会の神話と構造』において「他人と自分は違う、といことを周囲に誇示するための消費が経済を加速する」ということを主張しています。例えば、

「消費活動がその中に組み込まれ、そのなかで意味を与えられることになるようなコードに基づいた意味付けとコミュニケーションの過程としての側面。この場合、消費は交換のシステムであって言語活動と同じである」

とか

「消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない。他人との違いを強調することは同時に差異の全秩序を打ち立てることになるが、この秩序こそはそもそもの初めから社会全体のなせるわざであって、いやおうなく個人を超えてしまうのである」

とか

「充足は熱量やエネルギーとして、あるいは使用価値として計算すれば、たちまち飽和点に達してしまうに違いないからだ。ところが、今われわれの目の前にあるのは明らかにその反対の現象、消費の加速度的増加(中略)である。この現象は、欲求の充足に関する個人的論理を根本的に放棄して差異化の社会的論理に決定的重要性を与えない限り、説明できるものではない」

といった目から鱗が落ちまくる様な指摘が目白押しです。


消費社会の神話と構造 普及版
ジャン ボードリヤール
紀伊國屋書店
売り上げランキング: 81,593




ゆっくり生成する
(温尻 2011.1.19)

最初の『ぼくがしまうま語をしゃべった頃』から、高橋源一郎のエッセイや批評は欠かさず読み続けているけれど、この“ただ肯定する小説家兼批評家”である彼の、明治学院大学での「言語表現法講義」を書籍化した『13日間で「名文」を書けるようになる方法』も、やっぱり面白かった。そしてやっぱり読み終わるのに時間がかかった。
大切なことがゆっくり読めるように書かれて(話されて)いるからだ。

詩はあまり読まれるものではありませんからね。というのも、おそらく、人間というものの誕生と共に生まれた、詩という芸術は、きわめて独特の性質をもっているからです。

詩というものは、ひとりの人間が、誰かひとりに向かってではなく、おそらくは、誰に向かってでもなく、できるかぎり「遠く」へ、ことばを届かせようと思って、創られるものだからです。そして、それが書かれる目的は、誰かを説得するためではありません。

あなたたちが、わたしと共に学んできた「文章」と呼ばれるもの、別の言い方をするなら「散文」と呼ばれるものとは、根本的な性質が異なるのです。

Rさん、ノートには、なにも書かなくていいんですよ。

「すいません!」

謝る必要なんかありません。わたしは、ただ、文章=散文とか、詩=散文以外のもの=たとえば韻文とか、そんな知識など必要がないといいたいだけです。「詩」というものが、確かに、この世の中に存在している、ということがわかればいいのです。

もちろん、そのために、まず書いてみる、というやり方もあります。なにより、この講義で、わたしは、あなたたちに、まず「文章」を書いてもらうということから始めました。というのも、「文章」を書くということは、要するに、「思考する」ということだからです。そこに、なにかがあって、それがなにであるかを知るために、あなたたちは、「文章」を使って考えてみるのです。だから、それがどのようなものであれ、「文章」は、まず書いてみることから始めるべきなのです。

それに対して、「詩」の場合には、少々、条件が異なっています。「詩」は、考える必要は、とりあえずありません。考える前に、ことばを使わなければならないのです。そこでは、ことばは、どちらかというと、「不意打ち」のように使われます。もちろん、熟慮して、ことばが選択される場合も多いでしょう。それにもかかわらず、「詩」では、ことばは、考えるよりも「速く」、というか、考えることとは無関係に、見出されるべきものなのです。

それは、「文章」で使われることばにとって、眩しく、輝かしい存在、仰ぎ見るべき存在でもあるのです。


高橋源一郎は、まさにその場で生成する言葉を使う、つまり、何の確信も持たずに宙ぶらりんのまま講義をする。


これでわたしの講義はすべてお終いです。わたしは、あなたたちに、いくつかの、わたしの好きな文章を読んでもらい、それから、いくつかの課題を出しました。そして、わたしは、あなたたちの文章を添削しませんでした。ある部分を削り、ある部分の表現を変え、それから新たになにかを付け加えると、おそらく、あなたたちの書いたその「文章」は、「もっとよい文章」になったかもしれません。しかし、わたしの考えでは、大切なのは、あなたたちの書く「文章」が、少しぐらいよくなることではないのです。

わたしは、あなたたちに、おおいにとまどってほしかったのです。というか、「文章」をうまく書くようになるのとは正反対の方向へ、なにも書けなくなるとか、なにを書いたらいいのか、なんのために書いているのか、わからなくなるとか、そうなってほしかったのです。しかし、自分が書いているものをまじまじと見つめ、いったいどうしてこんなことを書いているのだろうと考えるためには、僅か13回の講義では不可能だということも事実なのです。

あなたたちの「文章」を読むことができて、わたしは、あなたたちに感謝しています。「文章」の中にはあなたたちがいます。あなたたちの「声」があります。うまくいかなかった場合でも、そうなのです。ならば、それで十分なのかもしれません。

それでは、4ヶ月、一緒に勉強できて、嬉しかったです。さようなら。


13日間で「名文」を書けるようになる方法
高橋 源一郎
朝日新聞出版
売り上げランキング: 417,817



自分は世のため人のために何をなしうるか、という問いを切実に引き受けるものだけが、才能の枯渇をまぬかれることができる。
(温尻 2011.1.25)

内田樹氏ブログ「才能の枯渇について」

才能は「贈り物」である。
外来のもので、たまたま今は私の手元に預けられているだけである。それは一時的に私に負託され、それを「うまく」使うことが私に委ねられている。
どう使うのが「うまく使う」ことであるかを私は自分で考えなければならない。

才能を「うまく使う」というのは、それから自己の最大利益を引き出すということではない。
才能は自己利益のために用いるとゆっくり目減りしてくる。才能を威信や名声や貨幣と交換していると、それはだんだんその人自身から「疎遠」なものとなってゆく。才能は外在化し、モノ化し、やがて剥離して、風に飛ばされて、消えてゆく。

逆に、「世のため人のため」に使っているうちに、才能はだんだんその人に血肉化してゆき、やがて、その人の本性の一部になる。そこまで内面化した才能はもう揺るがない。

長く生きてきてそのことがわかった。

「自分の才能が自分にもたらした利益はすべて自分の私有財産である。誰ともこれをシェアする必要を私は認めない」という利己的な構えを「危険だ」というふうに思う人はしだいに稀な存在になりつつある。
でも、ほんとうに危険なのである。

『贈与論』でモースが書いているとおり、贈り物がもたらした利得を退蔵すると「何か悪いことが起こり、死ぬ」のである。
別にオカルト的な話ではなくて、人間の人間性がそのように構造化されているのである。だから、人間らしいふるまいを怠ると、「人間的に悪いことが起こり、人間的に死ぬ」のである。生物学的には何も起こらず、長命健康を保っていても、「人間的には死ぬ」ということがある。

贈与のもたらす利得を退蔵した人には「次の贈り物」はもう届けられない。
そこに贈与しても、そこを起点として新しい贈与のサイクルが始まらないとわかると、「天」は贈与を止めてしまうからである。
天賦の才能というのは、いわば「呼び水」なのである。
その才能の「使いっぷり」を見て、次の贈り物のスケールとクオリティが決まる。

自分は世のため人のために何をなしうるか、という問いを切実に引き受けるものだけが、才能の枯渇をまぬかれることができる。

才能の消長について語る人があまりいないので、ここに経験的知見を記すのである。


これは、感覚的によく分かる。
自分がいちばん気持ちよくワクワクテカテカしてるのって、「自分以外の何か・誰か」のために頑張ってるときだから、「ああ、きっと人間ってそういうふうに創られてるんだな」と。



ホフステードの四次元
再び山口周氏ブログ日本における女性活用を阻む最大の敵

この「男性らしい社会」のスコアで、日本は残念ながら調査対象となった53カ国中でダントツの1位なんですよね。ちなみに先ほど例に挙げたスウェーデンは53位で最下位となっています。男性らしさ指標において世界でもっとも低いスコアとなっているスウェーデンでさえも、ああいった難しさを持っていることを考えると、日本を「女性が働きやすい社会」にするという挑戦は、泳いで太平洋を渡るとか、棒高跳びで月に行くとか、それくらい難しいことなのかも知れないということです。
(略)
以前在籍していたファームで昇進審査の会議に参加していたときのことです。産休で休んでいた女性について議論していた際に、とても尊敬していたオランダ人のパートナーが、「日本は文明国だとずっと思っていたけど、今日の皆さんの議論を聞いて愕然としました。この様な前時代的な議論が、世界中の弊社オフィスのどこかで行われているとは思えないし、更に言えば許されているとも思えない」と非常に残念そうな顔をして指摘したんですね。

僕が「あ、なにかこれは新しいことを言っているのかも知れない」と思ったのは、この指摘を受けた際、その場に居た日本人の殆どが「え?普通にニュートラルな評価をしていた積もりなんだけど?」と顔を見合わせていた時です。指摘されて「ハッ」と思えるならまだいい。反省出来るというのはバイアスを相対化できるだけの認識のマップを持っているということですから。しかし、この場にいた殆どの人は「キョトン」とするばかりで彼の意を得ることが出来なかった。つまり、カルト宗教のドグマの様に、そう他者から指摘されても気付かないほどに、このバイアスの支配力は強力だということです。

会議に参加していたのは、一応グローバルファームのリーダーシップチームです。おそらく半分以上の人が長期の海外留学経験・就労経験をもっていたでしょう。そういう「リベラルをもって自認する人々」ですら、知らず知らずのうちに「人を評価する」というデリケートな局面になると日本の文化を持ち込んでジェンダーバイアスに絡めとられてしまう。

これは本当に、とてもとても手強い敵なんです。


この人のブログを遡って読んでるんだけど、面白い。



「罪」は救済できるけど「恥」は救済できない
山口周氏ブログ「恥の文化」とコンプライアンス違反

コンプライアンス違反の問題はルース・ベネディクトが『菊と刀』で指摘した「恥の文化」の枠組みで考えるとわかりやすいな、ということです。ベネディクトは

「諸文化の人類学的研究において重要なことは、恥に大きく頼る文化と、罪に大きく頼る文化とを区別することである。道徳の絶対的基準を説き、各人の良心の啓発に頼る社会は、<罪の文化>と定義することができる。」とした上で、さらに「恥が主要な社会的強制力になっているところでは、たとえ告解僧に対して過ちを公にしたところで、ひとは苦しみの軽減を経験しない。」

と指摘しています。つまり「罪」は救済できるけど「恥」は救済できないということです。

<罪の文化>に対して、ベネディクトは、<恥の文化>においては、たとえそれが悪行であっても、世間に知られない限り、心配する必要はない。


このエントリ、非常に興味深い。

「日本における責任の問題」については、ぼくは「敗者復活が容易ではなく、『失敗』が肯定的評価を受けることが少なく、さらに切腹(世界史上で日本にのみ存在)なんて恐ろしい風習があった国で、簡単に(大きな)責任を自ら認められるわけがない」と思ってる。
(新聞やテレビへの投稿やネットでの書き込みなどで「***は責任をとるべきだ!」などと平気で主張できるのは、大きな責任を負ったことがない人たちなのだろう。)


上記エントリからついでに。

教養とは何か?いろいろと答え方はあるけど僕は、一つの定義として「相対化できる知性」がそれであると言えるのではないかと思うのです。




外資系コンサルが教える 読書を仕事につなげる技術
KADOKAWA / 中経出版 (2015-10-20)
売り上げランキング: 32,663



「働く」というのは、本質的には「贈与する」ということ
(温尻 2011.2.1)

内田樹氏ブログ「人間はどうして労働するのか」

「働くとはどういうことでしょう」という趣旨の取材を何度か受けた。

「働く」というのは、本質的には「贈与する」ということであり、それは人間の人間性をかたちづくっている原基的な営みである。だから、「言語をもちいる」や「親族を形成する」と同じく、「どうしてそうするのか」を訊くことができない。

レヴィ=ストロースが言うように、人間性を基礎づけるすべての根源的制度の起源は闇に消えていて、私たちは人間である以上、それに直接には決して触れることができないからである。

人間の営みはすべて「言語使用」「親族形成」「経済活動」の三つのレベルでのコミュニケーションにすでに帰属していて、決してそこから出ることができない。

「働くとはどういうことでしょう」というような、近代以前では決して口にされなかったであろう問いが今ではしばしば表明されるのには、それなりの歴史的文脈というものがある。それは「働くことは自己利益を増大させるためである」という歪んだ労働観がひろく定着したせいである。

働くと、その程度に応じて、権力や威信や財貨や情報や文化資本が獲得される。だから働け、というのが近代固有の労働観である。
このきわめて特異な労働観を徴候的に示しているのは、かのベンジャミン・フランクリンである。フランクリンの労働観が徴候的なのは、労働の目的が「貨幣を得ること」それ自体だという点にある。

人間の経済活動についての理解はこのとき逆立したのである。

人間が経済活動を行い始めたのは、「商品交換」という歯車を一枚噛ませたほうが「人間は成熟することを促される」ことにあるとき太古の人々が気づいたからである。フランクリンの言い分とは逆に、「金儲けを督励するのは、そうした方がひとりの人間が周到で、勤勉で、遵法的になる上で効果的だからである」というのがほんらいの語順なのである。語順が狂ったまま200年ほど経った。

「人間が労働するのは、できるだけ多くの貨幣を得るためである」という倒錯した労働観が現在では「常識」として流布されている。それは「より多くの貨幣はより多くの幸福をもたらす」という(これまた蓋然性のあまり高くない)命題とセットになっている。

貨幣が珍重されるのは、貨幣が介在した方が労働が活性化し、「ピュシスから富を取り出す」ことへのモチベーションが高まるからである。経済活動が重要なのは、経済活動に参与するプレイヤーの「資格」に「市民的成熟」という条件が付されているからである。

労働の目的は「人間の人間性を基礎づけること」である。

端的に言えば「大人になること」である。

より具体的に言えば「適切なしかたで贈与が行える人間になること」である。

私たちの時代において「働くとはどういうことですか?」という問いが繰り返し口にされるのは、「贈与できるものになる」ことが人間の本質であるということを誰も言わなくなったからである。

経済学者が誰も言わないので、私が代わりに言っているのである。





経済活動/私たちが交換を行うのは、そこにゆきかう商品やサービスが「欲しい」からではなく、端的に他者と交換を行いたいからである。経済活動の根本にあるのは、この「他者とかかわりをもちたい」という欲望である。
(温尻 2011.2.2)

内田樹氏ブログ「今年最後の死のロード」

経済活動ということを多くの人はGDPとか株価とかいう数量的なもので考量するが、実際の経済活動は商品経済には限定されない。「モノの交換」があれば、それはすべて経済活動である。

私たちの時代において経済が停滞し始めているのは、「商品とその代価」という等価交換がもはや限界が来ているということである。

実際の経済活動には「商品とその代価の等価交換」以外に無数のものがある。むしろ、「モノの交換」そのものよりも、それを可能にするための社会的共通資本の整備のほうが経済活動の本来の目的なのだと私は思う。

私たちが交換を行うのは、そこにゆきかう商品やサービスが「欲しい」からではなく、端的に他者と交換を行いたいからである。
経済活動の根本にあるのは、この「他者とかかわりをもちたい」という欲望である。
私たちは商品が欲しくて交換をするのではない。交換をしたいから交換をするのである。

話の順逆を間違えてはいけない。先人たちが資本主義経済を導入したのは、交換を加速するには(つまり社会資本を充実させるには)このシステムがいちばん効率的だと思ったからである。ほかに理由はない。社会資本の中には海洋、森林、湖沼、生態系といったものも含まれている。

そして、人々が見落としているのは、経済活動を円滑に進行させるためには、そこに参加する人間の「市民的成熟」が不可欠だということである。クラ交易がそうであったように、贈与的な経済活動における主目的は「人間的成熟の動機づけ」である。クラにおいては、「自分の交換のパートナーとなってくれる相手が何人いるか、どのような社会的ポジションにいるか」ということが死活的に重要である。それは相手にとってもまったく同じことである。

どれだけ多くの他者から「必要」とされ、「信頼」され、彼らと互助的な関係をとりむすぶことができるか。「交換をめざす」ものは、常にそれを念頭においてふるまわなければならない。

それを近代的な語法で言えば、「市民的成熟」ということになる。
ほんらい、経済活動は「人間を成熟させるため」のシステムであった。その本義が見失われれば、それはもう厳密な意味での「経済活動」とは呼ばれまい。経済活動にコミットしても、それが人間的成熟にほとんど資するところがないということがあきらかになった段階で(つまり、メディアに登場する「経済的成功者」の顔がだんだん「幼児化」してきたときから)「資本主義はもう終わりかな・・・」ということについての暗黙の合意が私たちの社会にゆっくり形成されてきたのである。
合理的な判断だと私は思う。

市民的成熟が必ずしもベネフィットと直結しないにしても、「市民的に成熟していない人間は、どれほど利己的・打算的にふるまっても、最終的には経済活動において失敗する」ようなシステムが完備することに、国民の過半は同意するであろう。

日本経済再生の方向は「市民的成熟」と「経済活動における活動性」が相関するような社会システムを作り上げることである。

それが「贈与経済」システムである。



サイエンティストは、人類の見える範囲を広げてきたと思うんです。対して、アーティストは、「人類の世界の見え方を変えてきた」と思うんです。
むちゃ面白い!
猪子寿之、やっぱすごい。
(これまでテレビやネットで見てきた限り、この人はかなり舐めた態度をとってたんだけど、今回は違う。ホリエモンが相手だからか、本人がオトナになったからなのかは分からない)

【対談】堀江貴文×チームラボ代表・猪子寿之が語る「アートが変える未来」

サイエンティストは、人類の見える範囲を広げてきたと思うんです。対して、アーティストは、「人類の世界の見え方を変えてきた」と思うんです。

例えば、「雨を描いてください」と言われたら描けますよね。

堀江:雨 うん、描けるだろうね。

猪子:それって、人類がそう見えていると思い込んでいるから描けるわけなんですよ。1877年に描かれた有名な絵があります。タイトルは『パリの通り、雨」。明らかに雨の日のパリを描いているわけです。

堀江:雨が見えない。

猪子:これ、雨が描かれてないですよ。ぼんやりとしか。描かれているのは傘を差す人と雨で濡れた石畳の路面。この時代は、こういう風に雨が見えていたわけです。実は同じ頃に浮世絵が世界ではじめて雨を線で描いているんです。

***

猪子:結局、世紀を語る時に、大量消費社会がきて、マスメディアが出てきて、人類の価値観がどう変わっていったかをちゃんと説明しようと思ったら、アンディ・ウォーホル抜きには説明できないんですよ。現代の工業製品をニュートン抜きには語れないのと同じように。


※2008.6.28「風景」の発見


バスキアの話題があったのでついでに。
 ↓
一代で1兆円企業を築いたZOZOTOWN社長「異形の履歴書」

(・∀・)

日経スマホ乗っ取りに注意を

乗っ取られる可能性が高い具体的な端末として、基本ソフト「アンドロイド」搭載のスマホ、最新の基本ソフト(iOS10)を使用していないiPhoneのほか、タブレット端末やウィンドウズのパソコンを挙げている。

安全が確認されるまではブルートゥースの機能をオフにすることなどを当面の対応として推奨している。


(・∀・)

9月16日(土)21時00分~フジテレビ『そして父になる』

※2015.2.21映画『そして父になる』



そして父になる
そして父になる
posted with amazlet at 17.09.13
(2014-04-23)
売り上げランキング: 23,292



Appendix

プロフィール

ふじぼう

ふじぼう 自己紹介

月別アーカイブ

ブログ内検索

Extra

カレンダー

09 | 2018/10 | 11
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

全記事表示リンク

全ての記事を表示する

最近の記事+コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。