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プリシラ「ボレロに準備は要らない。」
曽田正人は『昴』のプリシラ・ロバーツにこう言わせている。

「ボレロに準備は要らない。ボレロを『許される』のをただ待つだけ。」

「ダンサーには2種類しかない。ボレロを踊ることが許されたダンサーと、そうでないダンサー」


曽田は、この漫画を、100年に1人と言われるシルヴィ・ギエム(Sylvie Guillem)のインタビューを目にしたことがきっかけで描いたとしているが、これがシルヴィ・ギエムの動画だ。凄い凄い凄い。

William Forsythe's "In the Middle Somewhat Elevated."



円卓の上でソリストが旋律を踊り、群舞がそれを取り囲むようにリズムを踊るモーリス・ベジャール(Maurice Béjart)振付けの『ボレロ』をマイヤ・ミハイロフナ・プリセツカヤ(Maya Mikhailovna Plisetskaya)が踊ったのがこの動画。何度見たことか。
[Part 1]


[Part 2]


男性ソリストだと、やはりジョルジュ・ドン(Jorge Donn)。
(気持ちは分かる。でもダメだ、それはやめよう、江頭2:50‥と呟くのは)




『昴』は必読だ。休載後、現在はスピリッツで『MOON 昴 ソリチュード スタンディング』として連載が再開されている。隔週だけど必ず読むことにしている。



ローザンヌ国際バレエコンクールを、教育テレビで2時間放送していたので録画して観たが、新人なので、みな、下手っぴいだ。
しかし高田茜の表現力は飛び抜けていた。
スカラーシップを獲った彼女のクラシックもコンテポラリーも素晴らしかったのだけど、しかし、いいのか、ほんとに、あれで。
あれは日舞じゃないか。「踊り」よりも「舞い」の方が濃厚に現れていた。


おまけ。
William Forsythe自身によるダンス。(・∀・)!!



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愛とは、つまり、視ることだ。
イビチャ・オシムがジェフユナイテッド市原(当時)の監督だった頃、ある試合の終盤で阿部勇樹がシュートを外したことについて記者から質問された彼はこう言った。

「人間誰しもミスをしますよ。私だってします。シュートだって外れる時もある。それよりも、彼があの時間帯にあの位置まで走っていたことをなぜ褒めないのか?」

阿部はその発言を人伝に聞き、ひとり泣いたらしい。

そのとき、彼の内に何が芽生え、何を決意したのか。我々はそれを容易に推測することができる。

( ・_・)


愛とは、つまり、視ることだと分かる。


「オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える」(携帯リンク)




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赤星が観客にマヂギレ。香ばしい。
5月24日(土) ソフトバンク vs 阪神
赤星がヒーローインタビュー中に突然、観客に向かって

「入ってねーんだよ!コノヤロォ、おめぇ」



この香ばしい動画。赤星の大ファンになった。

2ちゃんねらの反応も素晴らしいw


・何が入ってないの?野次の肝心な部分が聞こえないぞ!

・優等生の赤星が切れるぐらいだからヤジが悪いんだろうな‥

・「ヒーローインタビュー聞こえねえよ」「マイク入ってねえぞ!」(敵地だから場内にむけての音声なし)
赤「入ってねーんだよ!」
これが正解らしい。

・親父「ソープ○○の会員だろ!」赤「入ってねーんだよ!」

・親父「さすがレギュラーや!!」赤「(スタメンに)入ってねーんだよ!」

・親父「トラッキーの中に人が入ってるんだろ?」赤「入ってねーんだよ!」

・親父「インテル入ってる?」赤「入ってねーんだよ!」

・長嶋「セコム」赤「入ってねーんだよ!」

・上原「続きはスカパーで」赤「入ってねーんだよ!」

・ファミマ「TSUTAYAのポイントカードお持ちですか?」赤「入ってねーんだよ!」

・細木「あなたは大殺界に入った!」赤「入ってねーんだよ!」

・ヤクザ「この店は本番行為禁止だっつってんだろうが!」赤「入ってねーんだよ!」

・女「もう入れていいよ」赤「入ってんだよ!」


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ハッタリとは、信用の前借りである。
名言を吐いてしまった。この口が憎い。

実績を作ってから「実績があります」と言う場合、これを「自己アピール」という。実績もないのに「実績があります」と言ってその後に実績を作る場合、これを「ハッタリ」という。

ハッタリの1つや2つ、涼しい顔してカマせない人間など、オトナの名に値しない。


「地位は人を作る」というのも同系である。
人は地位に相応しい実力をつけてからその地位につくのではなく、地位についた後でそれに相応しい実力をつける。

これを分かっていないと、人を育て損ねる。

結婚を、まだそこまで成熟していないなどと言って、延ばしてはならない。人類はみな成熟する前に結婚してきた。


身に着けるモノ(靴、ネクタイ、シャツ、スーツ、時計、鞄など)も同じで、人は質の良いモノを身に着けていれば、それに相応しい風格を纏うようになる。
(車や不動産、さらには異性も同じ役割を果たすだろうか)

男が大人の身嗜みを学ぶのなら、落合正勝は必読である。「[新版]男の服装術/スーツの着こなしから靴の手入れまで」(携帯リンク)は、基本書だ。20代向けのファッション誌「MEN'S NON-NO」「POPEYE」「Gainer」「GQ JAPAN」、30代以上向けの「MEN'S CLUB」「LEON」「Safari」なんぞ読んでる場合ではない。

スーツ10万、靴3万円。これは間違った資産配分だ。逆なのだ。




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2008.5.18 安馬 vs 若ノ鵬を見たか
2008.5.17(土)に男5人のpartyを組んで両国国技館まで大相撲見物に行った。
升席は完売で椅子席Bしかとれず、座布団を投げることができないのだと知ったぼくたちは、このお祭りに参加するには声を出すしかないと、「安馬ーーっ!!」だとか「稀勢の里ーーっ!!」だとか叫んでいたのだけど、琴光喜に対する声援でぼくが「みつきっ!」と小さく叫んだところ、5人中の最年少君が「あ、それ、僕の昔の彼女の名前だ」と呟き、やおら大声で狂ったように「みつきーーーー!!」と絶叫したんだけど、あれは未練のなせるわざだったんだろうか。この1年間恋愛街道を迷走し続けた彼に幸多からんことを祈るばかりである。

その日は、はたき込みや立会いの変化が多く、結びの一番(朝青龍vs鶴竜)以外に面白い相撲はなかった。若ノ鵬なんて、ぼくたちと通路で擦れ違ってニコニコ顔を見せてくれたのに、取組ではいきなりはたき込みなんてズルしやがって、もう絶対に許してやらん!と憤ったものだった。

翌日、安馬は、ぼくたちの私憤を昇華させるかのように、若ノ鵬相手に素晴らしい相撲を見せてくれた。



この動画。もう絶句である。いつも千秋楽の解説を担当する北の富士勝昭は、「いやぁ、あれは凄かった。あれはうっちゃりというよりほとんど櫓投げ(やぐらなげ)ですよ」と言った。

うっちゃりという決まり手は激減している。ハワイ勢全盛期に力士の体重が増えたせいだが、これからは安馬と高見盛によってうっちゃりを見る機会も増えるだろう。


あの安馬の凄い相撲を自宅で見たぼくは、「俺が行った翌日に安馬がこんな相撲をとるなんて、俺には凄い相撲に遭遇する才能が欠けてるな」と確信したのだが、そういや以前に10人で行ったプロ野球なんて、初回にホームランが飛び出した以外は全く見せ場がないという試合だったのに、ぼくたちが球場に到着したのはホームランの直後だったなんてこともあわせて考えると、つまりぼくには‥
(´・ω・`)ショボーン


たった今、これを書きながら千秋楽の横綱対決を見た。
朝青龍はあっさり白鵬を引き落としで破ったが、朝青龍は、白鵬が土俵に手をついた後、つまり勝負が決した後に両手で白鵬の体をぐいっと「駄目を押」し、それに対して白鵬は立ち上がりざま右肩で朝青龍の胸元を押し返し、両者は土俵中央で睨み合った。
なんと素晴らしい瞬間だろう!

来場所は、下半身を完成させた琴欧洲の綱取りも見所だが、我々は千秋楽を絶対に見逃してはいけない。何か恐ろしいことが起こりそうな気がしてならない。
白鵬が右肩で押したのは、朝青龍の胸元ではなく、相撲界に存在した微妙なパワーバランスなのだから。


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書かれざるルール(unwritten rule)
野球には「書かれざるルール」と呼ばれるものがある。
典型例は『味方がぶつけられたら敵にもぶつけろ』というやつだ。


落合博満が中日ドラゴンズの監督に就任する直前のこと。落合が解説を担当した試合で、まさにその「敵にもぶつけろ」場面がゲーム中に出現した。味方がデッドボールをくらった次の回に、投手が相手チームの打者の肩付近に思いっきり直球をぶつけたのだ。

そのとき落合は「言っていいですか?」と彼らしくない前置きをしたうえで、「狙ってぶつけたんですよ」と例の余裕たっぷりのふてぶてしさで断言した。そんなこと試合中の解説で言ってしまったのは落合だけだ。前代未聞。ぼくはその言葉を聞いたときあまりの悦びゆえに失禁しそうになった。

投手出身のもう1人の解説者は「そんなこと絶対にありません!!」と激怒し、放送局には視聴者からの苦情が殺到した。 落合のらしくない前置きは、これらを予想したがために吐かれたものだ。

落合の解説は正しい。
そして間違えてはならないのが、もう1人の解説者の激怒も、視聴者の苦情すらも正しい(=あってしかるべき)ということだ。


モラルやキハンというのは、打ち破られることを望んでいるというか、打ち破られるためにあるというか、打ち破ってもいい権利を持っている人がいるというか、ハレとケというか、まあうまく言えないがそんな感じで、つまり、キハンを強化しようとする多数者の意思があってこそ不意に噴出するエネルギーが凄まじいというか、キハンが破れて突然現われてしまう真実が光となって闇を照らすというか、エントロピー増大というか、日常があってこそ非日常たる祭りが盛り上がるというか、聖なる者犯すべからずというか、まあそんな。


野球を観る側の我々にも課された「書かれざるルール」がある。

キハンを強化する類のものはすべて生暖かく見守らねばならない。
決して表立って嘲笑などしてはならない。
なんなら加担してもよいぐらいだよ。


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琴欧洲の笑顔/把瑠都と少年
初優勝を決めた安馬との大一番は、とにかく抱きついてそのまま倒れてやれっ!といった感じの、どう贔屓目に見たって大関の相撲だとは思えないものだったけど、所要11場所という最速記録で新入幕する以前からファンを「こんなに優しい気性で大丈夫なんだろうか‥」と心配させてきた琴欧洲(25歳)の初優勝インタビューでの笑顔を見て、やっぱり「大丈夫なんだろうか、こんなに素直で‥」とまたもや心配になるのだけど、それでも嬉しいものだった。


しかし、把瑠都はどうしたのだろう。琴欧洲の笑顔も大好きだけど、把瑠都の笑顔も大好物なのに。

以下は、昨年7月に記したもの。

@@@

<少年が受け取ったもの>

大相撲、名古屋場所の初日、怪我のため戦線離脱していた把瑠都が、十両であっさり優勝して幕内に帰ってきた。

力士生活21年間でたった10回しか負けなかった(勝率9割6分2厘)という大相撲史上最強力士、江戸時代の雷電為右衛門の再来かと騒がれるこのエストニア出身の好青年は、初日、いいところなく負けてしまった。

名古屋場所では、力士は相撲を取り終え花道を下がり、そして力士一人だけでイッパイでもう他には誰も通れないというほどの細い通路を通ることになるのだが、この通路にはファンが待っていることがある。

負けて通路を歩く把瑠都の姿をテレビカメラが追っていたのだが、オレンジ色の服を着た少年が把瑠都の前方からトコトコ走ってきてサインをねだった。把瑠都はその依頼に応じ、少年の持ってきた色紙にサインをしてあげた。

次に、灰色の服を着た小学校5年生ぐらいの少年が同じように把瑠都の前に出てサインをねだろうとしたときだった。 把瑠都は少年など目に入らぬかのように虚空を見つめたまま、自分の不甲斐ない相撲に腹を立てたのだろうか、通路の金網のような壁を右手で力いっぱいにバーンと叩いた。少年は一瞬凍りつき、凍りついた表情のまま踵を返した。

把瑠都はいつもニコニコしている好青年でファンも多いが、体格は全力士の中でも屈指といえる197cm・172kgで、しかもエ ストニアではナイトクラブでボディーガードをやっていた。その把瑠都に目の前で壁を力一杯に叩かれてしまった少年。


その数分後、ドナルドダックのように愛嬌のある北桜が、勝って花道を下がり、通路の方へやってきたとき、多くの少年が北桜にサインをねだり、ファン思いの北桜はその全員に応えていたのだが、そのとき、あの少年は、北桜を取り巻く多くの少年達の輪の外からじっと北桜の目を上目使いに見続け、結局、色紙を前に出すことはなかった。


あの少年は、把瑠都から掛け替えのないものを貰ったのだ。
それは「恐れ」ではなく「畏れ」の感情だ。

自分の力では如何ともしようがない「何か大きな力」、その力に対する尊敬と諦めの混じったような感情を「畏れ」というのだとぼくは思っているのだが、今は定義などどうでもよい。「畏れ」の感情は、万能感を叩き潰し、地に足のついた人間を育てるのに必須のものである。どこかしら世の中を舐めたような愚か者にならないためには、この畏怖の感情が絶対に必要だ。

あの少年は、把瑠都の凄まじい怒りと腕力を目の当たりにして、一瞬にして大人になった。把瑠都の怒りは少年に向けられたものではなかった。だから少年の心にはキズとなって残るのではなく、何かとても大切なものとなって心の中に生き続けるだろう。

少年が把瑠都から受け取ったものは、とても大切なものだ。


※雷電為右衛門については、格闘技好きなら誰もが読んでいる川原正敏の漫画『陸奥圓明流外伝 修羅の刻』の15巻「陸奥 左近の章 雷電爲右ヱ門編」参照のこと。





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女に関する格言
女をよく言う男は、女を十分知らない。女をいつも悪く言う男は、女をまったく知らない。(モーリス・ルブラン)

男の性欲は自然に目覚め、女の性欲は目覚まされるまで眠っている。(シュルツ)

女の欠点を知ろうと思ったら、彼女の女友達の前で彼女を誉めてみることだ。(フランクリン)

醜い女はいない。ただ、どうすればかわいく見えるかを知らない女はいる。(ラ・ブリュイエール)

女というものは、自分とすれちがった他の女が自分に注目したかどうかを直感的に悟る術を心得ている。というのは、女が着飾るのは他の女たちのためだからだ。(キルケゴール)

女は計算が大好きだ。自分の年齢を2で割り、自分のドレスの値段を2倍にし、夫の給料を3倍に言い、いちばんの女友達の年齢にいつも5足す。(マルセル・アシャール)

男は目で恋をし、女は耳で恋に落ちる。(ワイアット)

女は自分の恋愛沙汰が世間の口にのぼらないことを望む。しかし、自分が愛されているということをみんなに知られたいと望む。(モーム)

女は自分の美点のために愛されることにしばしば同意するが、常に好むのは、自分の欠点のために愛してくれる人のほうだ 。(A.プレヴォ)

男はダメだよ。階級や勲章に目がくらむからね。そこへいくと、女は勲章ぶら下げて喜ぶようなバカはいないから頼もしいよ。(景山英子)

「~にそっくり」って言われる女の子は可愛くない。(マーフィーの法則)

女の子が別の子を「かわいい・美人」という場合、その意見が男性の支持を得ることはない。(マーフィーの法則)

女性が鏡に映して自分を見るのは、自分の姿を見るためでなく、自分がどんなふうに他人に見られるかを確かめるためだ。(アンリ・ド・レニエ)


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beyond a reasonable doubt
米国。
有名な刑事専門弁護士が、殺人罪で起訴された被告人のために最終弁論をしていた。その事件では、被害者の死体は発見されていなかった。

弁護人はドラマチックに法廷内の時計を指さして言った。
「陪審員の皆さん、皆さんがびっくりするニュースをお知らせします。私は、本件の被害者とされている女性が生きていることを発見しました。今からちょうど10秒後に彼女がこの法廷のドアから歩いて入ってきます。」  

重い静寂が法廷をおおい、誰もがドラマチックな登場を待っていた。

しかし、何も起こらなかった。

弁護人は言った。
「まさに、あなた方が、被害者がこの法廷に入ってくることを予期してドアの方をじっと見ていたという事実そのものが、殺人が実際に行われたかどうかについて、あなた方が合理的な疑い以上のものを持っているという証拠なのです。」

弁護人は自信満々で着席した。

陪審員は裁判官から説示を受けて法廷から出ていき、そして戻ってきた。


評決は有罪だった。

裁判官が手続の終了を宣言してから、うろたえた弁護人は陪審員長を追いかけて質問した。
「有罪だって?君たちはどうして有罪にできるんだ?君たちはみんなドアの方をじっと見ていたのに。」

陪審員長は答えた。
「ええ、私たちのほとんどの人はドアの方をじっと見ていました。でも、私たちのうちの1人は被告人の方をじっと見ていたんです。すると被告人はドアの方をまったく見ていなかったのです。」


出展:「くたばれアメリカ弁護士―ジョークで知る爆笑訴訟社会」(携帯リンク)

さて、この物語では法廷内で6種の視線が存在する。

1.弁護士の視線
2.1人の陪審員の視線
3.その他の陪審員の視線
4.被告人の視線
5.裁判官の視線
6.傍聴人の視線

あの全ての視線を視覚化する場合、最も効果的な撮り方とはどのようなものだろうか。
この錯綜する6種の視線を一挙に絡めとる撮影監督の視線とは?
「(*`Д´)おい弁護人!ちゃんと被告人と打ち合わせやっとかんかいヴォケがー!」などという下品な突っ込みよりもよほど建設的な問いかけであろう。




自分の言葉/something unique
「自分の言葉」などというものはナイはずだ。言葉そのものは自分が作ったものではない。
しかし、世の中には、「ああちゃんと自分の言葉で話しているな」と感じさせる人がいる。たとえば、野球のイチロー・江川 ・落合、サッカーの中田、将棋の羽生、作家の保坂和志がそうだ。こういう人たちが話す言葉は、聴きたいと思ってしまう。

対して、野球の松井秀喜・古田敦也、サッカーの中村俊輔、競馬の武豊、将棋の清水市代、柔道の谷亮子、こういう人たちの言葉を聴きたいとはまったく思わない。

この違いは何なのだろうか。端的に言うと、後者の人たちは優等生気質なのだと言えるのだが、これはつまりどういうことなのだろうか。

おそらく、自分の中に発生するイメージや思考や感覚や感情など「固有の何か(something unique)」を、既成の文脈では語ろうとせず、なんとかそれを最も近く表現しうる言葉で語ろうとする意思があるかどうかの違いなんだろうと思う。前者の人たちにはその意思と能力があり、後者の人たちは既成の文脈で済ませようとしたり、「固有の何か」そのものを既成の文脈に合わせようとしたり、期待された答えを先読みして「正解」を言ってしまったりする。


思考は脳だけによってなされるものではない。我々は身体でも思考(情報処理)する。だから言葉による表現がうまくないからといって思考していないわけではない。思考しないような選手が一流になれるはずがない。しかし、言葉を聴きたいかと問われれば、やはり上の結論に至る。


イチローは突出している。彼は言葉の世界においても不世出の天才だ。彼は「固有の何か」を言葉に置き換えようとする意思に溢れている。どう考えても彼の「固有の何か」は「特殊な何か」なのに、それをなんとか言葉で表現しようとしている。おそらく他人のためでなく自分のためなのだろうが、それでも彼が言葉を懸命に選んでいるとき、どきどきしながら待ってしまう。テレビで放送された椎名林檎との対談もそうだった。
イチローがマスコミのインタビューに答えたくないのは当然で、インタビュアー自身が言葉の限界を知らないどころか、言葉を持とうともしていないのだから当然で、小松成美や石田雄太というイチローから選ばれた数少ないインタビュアーを羨ましく思う。


あるプロ野球の試合で、内野手がエラーした後に投手が連打されて失点した。よくあることだ。解説の江川卓はこう言った。

「うーん、これはですね、なんて言うんでしょうか、そう、投手の体内にはアウトをカウントするものが入ってるんですよ。カチッカチッと、アウトを取るたびにカウントされるんですよ。で、投手が投げて打者が打ち損じて内野フライがあがるとしますよね、すると野手が捕球する前にもう既に投手の中ではカチっとアウトが1つカウントされてるんですよ。その後にエラーですね。そうするとですね、一度カウントされたカウンターってなかなか元に戻らないんですよ。そんな混乱した状態で投手は次の打者に投げることになるんです。棒球が行きます。打たれます。」

こんなこと、江川じゃないと絶対に言えない。たいていの解説者だったらこう言う。「エラーした後はよく打たれるんですよ。野球ってそういうもんです。ピッチャーは気を引き締めんとイカンですよ。」


羽生の言葉は『決断力』から突然面白くなった。それまではウンザリするほどつまらなかった。ジェイムズ・ジョイスの 『フィネガンズ・ウェイク』を個人完訳してしまった言葉の天才としか言いようがない柳瀬尚紀との対談ですらつまらなかった。いったい羽生に何があったんだろう。


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強姦パラダイムの転換
1971年、強姦犯人1292人と強姦被害者646人に対してインタビューとアンケートが行われ出版されたのが『レイプ<強姦> 異常社会の研究』である。この本は、我々が抱いている強姦についてのイメージがいかに間違ったものであるかを明らかにする。


1.強姦犯人と被害女性は、顔見知りでないことが多い。

間違いだ。
80%~90%が顔見知りの関係である。そのうち約1/3は信頼し合った間柄で、女性が性行為を断ることが失礼にあたるような関係である。親しい近所同志、親しい友人、家族付き合いのある友人、親類など。

2.強姦は、犯人の性的欲求不満が原因である。

間違いだ。
原因は、1つは社会に対する憤り、1つは性的に自分自身の存在を証明したいという欲求である。強姦犯人は男らしさについて劣等感を持っている。「男らしさ」とは、「男は家族を扶養するものだ」というもの(強姦は犯人が失業したときや昇任昇格に失敗したときに行われることが多い)と「男は女に性的満足を与えるものだ」という強迫観念である。国を超えて共通する「男らしさ」に自信を持てず劣等感を抱く犯人は、女性に対して性的攻撃をすることによって、自分の男らしさを束の間回復させようとする。

性欲が関係ないのなら、なぜ顔面や身体への暴行でなく、性器への暴行が選ばれるのか。それは性器への暴行がもっともきつく人間の深みまで攻撃できる手段だからである。これは、男が女にだけではなく、男が男に、女が女にする攻撃でも最高の攻撃効果をもつとされる。性器への侮辱は最大の侮辱となる。女性を深く傷つけることによってモノ化し、女性に対する優位性を証明し、自分の男らしさを回復する。これが強姦である。

3.強姦は、衝動的であることが多い。

間違いだ。
1対1のケースでも57%、2対1のケースは83%、集団強姦は90%以上が計画的犯行である。

4.強姦は、犯人が被害女性に悩殺されて起こる。

間違いだ。
犯人は被害女性の顔や肉体にひきつけられるのではなく、端的に「無防備な女」を狙っている。一人ぼっちでいる女性、知恵遅れの女性、年寄りの女性、障害者。強姦は「弱い者を食い物にする力への渇望」である。


小倉千加子の「セックス神話解体新書」からの引用である。
(同書中で小倉が使ったジョン・マネーのデータや狼少女の逸話などにいくつか疑義があるとされているが、今回引用するのはその部分とは無関係な章からである)


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時効の制度趣旨は、博打性の導入にある。
ちょいと月日が流れたからといって、いきなり1000万円の債権が消えてしまったり、殺人事件の真犯人が処罰されなかったり、理不尽だ!とそりゃぁ叫びたくなるだろう。
しかし理不尽だからこそ時効という制度は維持されているのだ。

「事実状態の尊重」だとか「立証困難の回避」だとか「権利のうえに眠る者は保護しない!」だとか「レインボーブリッジを封鎖せよ!」だとかそんなものはどうでもよい。

時効によって利益を得た者は「ラッキー!」とステップを踏み、不利益を被った者は「理不尽だ!」と地団駄を踏むことになるのだが、このラッキー性と理不尽性というのは、よくよく考えるとつまり博打性のことで、この博打性の導入こそが時効制度の趣旨だと分かる。


法律にはたいてい原則と例外があるのだが、例外といってもその例外にはいつだって合理性がある。あくまで法体系の内側での例外にとどまる。しかし例外たる時効制度なんてものに合理性もへったくれもない。明らかに不合理だ。時効制度は法体系の外側に飛び出してしまう例外なのだ。

そんなもの、法学者に説明できるわけがない。これは文化人類学や社会学でしか説明できないのだ。
たぶんね、知らんよ、責任もたんよ、思いつきだから。


じゃあなんで博打性なんてもん導入せねばならんのか?
簡単だ。博打のない世の中を想像してみればよい。博打がどんな社会的機能を果たしているかを。

シェークスピア『夏の夜の夢』の妖精パック、ギリシア神話のオデュッセウス。
トリックスター礼賛。祝祭歓迎。

原則は例外を含み、例外によって成り立つ。


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ロベカル(Roberto Carlos)のゴール2つ。
マルタさんの誘惑に負けて、Youtubeでロベカルの背筋が凍るシュート2つ探してみた。

やっぱ怖いなこれ。。。((((;゜Д゜)))ガクガクブルブル



カメラマンが完全に振られてw


キーパーが完全に振られてw
解説のおっさん、「What else do you want to know!」ってw2回もw


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欧州CL決勝
第1戦は21日深夜。
マンU vs チェルシーのイングランド対決。

マンUの優勝を見たいが、なぜかチェルシーが勝つような気がしてならない。
クリスティアーノ・ロナウドが勝者になる場面が想像できないのだ。どう考えてもドログバの方が勝者顔だ。
マンUが優勝するとしたら、バラックが痛いミスをしてくれたときだけだろう。バラックはなんだかうまくゲームに入っていけないタイプだから、彼だけ浮ついてとんでもないミスをやってくれそうな予感がある。しかしテリーがそんなこと許さないだろうな。


C・ロナウドのフリーキック2本。なんだこれは。
ボールのすぐ左側に左足を強く踏み込んでボールを少し浮かせてキック。ありかよ。





ジュニーニョ・ペルナンブカーノのフリーキックも凄い。



この3つの動画を観れば、「まるで生き物のようだ!」だとか「まるでボールに意思があるかのようだ!」という言葉が明らかに間違っていることが分かるだろう。違うのさ。彼らに蹴られて飛んでいく無回転のボールは「意思」という概念を鼻で笑っているような、そんな軌道でゴールに突き刺さる。それを見せられたぼくたちは
(´∀`)はっはっはっは
と笑うしかない。
「意思」なんてのはしょせん貧乏人の贅沢品にすぎないよなと、まるで貴族のような気分になってしまう。バチカンの枢機卿たちだってふと神の存在を疑ってしまうだろう。

中村俊輔の回転するボールは「ほー」と唸らせてくれるだけで、笑わせてはくれない。ぼくたちを庶民のまま据え置いてしまう。そこが決定的に違う。


ティム・ウェイクフィールドの投げるナックルボールの軌道も凄い。
しかし彼のボールは、視聴者たるぼくたちが半笑いになる前に、既にバッターを半笑いにさせている。
「ぷげら、打てね~って」


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死亡リスク と 長生きリスク
日本は世界一の長寿国で、日本人は世界人口の2%を占めるにすぎない。
なのに世界の生命保険料の25%を日本人が支払っている(らしい)。

我々は、死亡リスクよりも長生きリスクを考慮すべきだろう。

生命保険(死亡保険)は、一家の稼ぎ頭が死亡してしまった後で残された家族が困らないように掛けられるものだ(節税対策のことはムシ)。だから、

・多額の金融資産をもつ夫婦の場合、お互いに保険を掛ける必要はない。
・共働きで双方ともに稼いでいる場合、お互いに保険を掛ける必要はない。
・妻の実家に金融資産があり、夫が死んだ後は実家が面倒を見る場合、夫に保険を掛ける必要はない。
・妻だけが稼いでいる夫婦がいる場合、夫に保険を掛ける必要はない。
・天涯孤独な男の場合、羨ましい限りだ。

こうやって考えると、生命保険に加入すべき人間というのはきわめて限定されることに気付く。典型例はこういう家族である。

夫・妻・子供の家族構成で、夫しか働いておらず、金融資産にめぼしいものがなく、夫が死んだ後の妻には稼働能力がなく、妻の実家にも金融資産がなく、子供がまだ独立していない場合。


当たり前だが、保険料がタダなら全員加入すべきだ。ぼくなら今すぐ保険会社の窓口に行って「100兆円!」と気が触れたように叫び続けるだろう。しかし保険料はタダではない。つか高い。

生命保険の保険料=純保険料+付加保険料。
純保険料:保険金の支払に充てるために徴収される保険料。
付加保険料:それ以外の(保険会社の事業経費)保険料。

以前に週間東洋経済がすっぱ抜いた資料によると、両者は47%:53%の比率だった。
凄い。ボッタクリバーも真っ青だ。外資系生保の気合の入りようが理解できる。

ご存じの通り、生保会社の社員の給料はけっこう高い。
 (加入者がそれを付加保険料として支払っている)

しかも、保険会社はメディアに馬鹿高い広告料を支払っている。
 (加入者がそれを付加保険料として支払っている)
 (これによってメディアによるチェック機能が十分ではない可能性がある)

さらに言えば、保険会社というのは株式会社ではなく相互会社の形態がいまだ多く、ガバナンスが全く機能していないこともままある。(法外な付加保険料をカッパいでおきながら経営を傾かせる○○な経営陣が誕生するのは必然だった)


保険というのは絶対的に必要な制度である。
しかし我々は必要な限度で保険に加入すべきだ。


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