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自分らしく生きる下層民
内田樹氏ブログ「階層化する社会について

階層社会というのは一部の社会集団にのみ選択的に社会的資源(権力、財貨、威信、文化資本)が配分されるシステムのことだが、このシステムは静態的なものでない。階層社会における「支配的なイデオロギー」は、階層下位にいる人間たちに自ら進んで「階層下位に自らを釘付けにする」ようにふるまわせる。

その時代のマスメディアが大衆にむかって「こうふるまえ」とうるさく言い立てる生き方に従うと、その結果「階層上位」に資源がいっそう排他的に蓄積されるように支配的なイデオロギーは構造化されている。それが私たちの時代においては「自分らしく生きるイデオロギー」「自分探しイデオロギー」として制度化されていたということである。

現在階層社会の下位に位置づけられているものが「自分らしく生きること」あるいは「ほんとうの自分はどういう人間なのかを問うこと」を最優先に配慮した場合に何が起きるか、それを考えればすぐにわかる。

「自分らしく」ふるまうということは、「他人の模倣をしない」ということである。ところが脳科学の知見が教えるとおり、人間というのは他者の模倣を通じて固有性を形成し、他人の思考や感情を模倣することによって人間的な厚みを増してゆくものである。思考も感情も私たちは外界から「学習」するのである。外界を遮断して、自分の内側をじっと覗き込んでいるうちに自生してくるような思考や感情などというものは存在しない。

ところが、「自分らしさ」イデオロギーはこれとまったく逆転した人間観に基づいている。「自分らしさ」イデオロギーによると、「私」は誕生の瞬間においてもっとも純良な「自分らしさ」をすでに達成している。それ以後の成長過程で外部から外付けされたものはすべて「自分らしくないもの」である。
それゆえ「自分探し」とは、自分が後天的に学習してきた価値観やものの感じ方や表現法などを削り落とし、剥がし落とし、「原初の清浄」に立ち帰ることを意味することになる。

これは言い換えると、「私は知るべきことはすでに知っている。私がこれから実現すべきことのすべてはすでに胚芽的なかたちで私に内在している。私が私であるために外部から新たに採り入れなければならないものは何もない。私が所有すべきすべての知識と技術を私はすでに所有している」ということである。

問題は「私がすでに潜勢的に所有しているもの」を現勢化するための「チャンス」(しかるべき地位や年収、しかるべき敬意や配慮)が(誰かがそれを不当に占有しているために)まだ「私」に分配されていないことに尽くされる。そのようにして、「自分らしさ」「自分探し」イデオロギーは「無権利者が占有している資源はほんらいの所有権者たる『私』に戻されねばならない」という「政治的に正しい」社会的格差解消論に結びつくことになる。

これは数年前に朝日新聞が大々的に展開した「ロスト・ジェネレーション」論そのままの構成である。

『下流志向』を書いているときにはまだ「ロスト・ジェネレーション」論は出現していなかったが、私がそこで分析したのは、他ならぬこの「階層下位の人々を、そこに釘付けにさせるイデオロギー装置」の構造であった。

なぜ「自分らしさ」の追求が階層の再生産に加担することになるのか。
理由は簡単である。
それは、「自分らしさ」を追求している人間は、「学ぶ」ことができないからである。
「学ぶ」という行為は次のような単純なセンテンスに還元される。

「私には知らないこと、できないことがあります」
「教えてください」
「お願いします」

これだけ。
これが「学び」のマジックワードである。
これが言えない人間は永遠に学び始めることができない。

けれども、「自分らしさ」イデオロギーはこの言葉を禁句にする。「自分らしさ」を追求する人間が前提にしているのは「私には知らないこと、できないことはない」だからである。

私は知るべきことはすべて萌芽的なかたちで「知っている」のだが、それを開花させる機会を提供されていない。私はなすべきことはすべて潜勢的なしかたでは「できている」のだが、それを発現する機会を提供されていない。仮に私が何かを知らなかったり、できなかったりするとしても、それは私の責任ではなく、私が「私らしく」自己実現することを阻害している「社会の責任」に帰される。

一見すると整合的な言説である(でなければ、これほど広くに普及するはずがないのだから、当然だが)。けれども、現在の自分の社会的な不調や地位の低さや年収の少なさをすべて「私が私らしく生きることを阻んでいる社会の責任」に帰するというのは、幼児の論理である。たしかに幼児は免責される。けれども、免責されることの代償に、幼児には幼児のポジションしか与えられない。

「私はさしあたり『私らしさ』を達成しえていないために社会的には無能とみなされている。だが、この状態について『幼児である私』には一切責任がなく、それゆえこの状態を改善する義務もない。誰か早急に何とかするように」というようなことを呟いている人間に社会的資源を優先的に配分し、高い地位や豊かな文化資本を提供するようなシステムは残念ながらこの世には存在しない。

「大人として遇して欲しければ大人になれ」というのが人類社会のルールである。

階層社会とはいえ、一定の流動性は担保されており、当たり前のことだが、そのパイプラインはただ「学ぶことができる人間」にだけ開かれているのである。「私には学ぶべきことはない」と宣言してしまったものは、まさにその宣言によって社会の流動性を停止させ、社会の階層化と、階層下位への位置づけをすすんで受け入れることになる。「学ぶもの」にとって社会は流動的であり、「学ぶことを拒否するもの」にとって社会は停滞的である。

「学ぶことを拒否するもの」が増えるほどに社会は流動性を失って、こわばり、石化する。
この趨勢をどこかで停止させなければならない。


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最近の傾向
最近、「これは話したい!」と思うことが激減している。
迂回に書いてっからそれ読んでくれればいいんだけどなぁ…、と。

(;´Д`)マンドクセ



名言
 
No man is free who cannot control himself.

Pythagoras


自分をコントロールできない者に自由はない。

ピタゴラス



ヤラせてあげる
という感覚が、つまり、自分には女として価値がある、男の欲望の対象たりうると何の疑問もなく思えるうちは顕在化しなくとも、年齢を重ねるうちに誰しもが直面せざるをえなくなるという問題がある。

中村うさぎが『私という病』で真正面から扱っているその問題とは、女は、男から欲望の対象とされることで得られる“女としての承認”と、勉強や仕事や社会的活動を通して得られる“人としての承認”との間で引き裂かれるというものだ。

(40歳を超えた中村うさぎがお金を払ったホストから嫌々ながらの屈辱的なセックスをされ、女としての価値を確認すべくデリヘル嬢として3日間で11本ヌイてという過程が)

女性の社会進出が進む前、少なくとも多くの女性たちに共有されるものではなかったこの問題が、特に職業をもつ多くの女性たちに対して明確なかたちで提示されたのが、1997年3月の東電OL殺人事件である。

男女雇用機会均等法が施行された1985年から12年経って起こったこの事件は職業をもつ多くの女性たちをして「あれは、わたしだ」と自分自身の問題として感じさせ、そして事件から6年経った2003年に出版された酒井順子『負け犬の遠吠え』によって10代後半、20代前半の女性たちにも問題が共有されるに至った。

結婚(離婚)するか、子供を産むか、仕事を続けるか、自分がどのような人生を選択するのかは、つまり、自分は、女として、母として、職業人として、どの承認を選択するのかを意味する。

また、全てを欲するのか、何かを捨てるのか。“選択と集中(core competence)”という戦略がある一方で、“卵は一つの籠に盛るな”という教えがある。

そして、ひとつ忘れてはいけないのは、幸か不幸か、人生の重大事は自分の意思とは無関係な外部的要因(「運」と言ってよい)によってほぼ決定されるということだ。

(●´ω`●)ゞ

<余事>

・先月出版された上野千鶴子の『女ぎらい/ニッポンのミソジニー』では、東電OL殺人事件に二章も割かれているらしい。楽しみであるが、同書を読む前にこのエントリをウプしてしまってよかったのだろうか。
※ミソジニー (Misogyny) :女性や女らしさに対する蔑視や偏見、憎しみを指す語。女性嫌悪とも。

・どうせ長期の予測なんてハズれるんだから、戦略とかそんなちょこざいなこと言ってないで、目の前のことをこつこつ一生懸命やるしかないんじゃなかろうかと思ってる。

・決定的に分からないことがひとつあって、それは“母親としての承認”なんだけど、それが“女としての承認”と“人としての承認”に並ぶものなのかどうかってこと。なんとなくだけど、いずれ子供は親を必要としなくなるので、それは問題を先送りしはするものの、後二者と並ぶものではないような気がする。でもまだよく分からない。

<課題>

女性にとって「若さ」とは何だろう?

 


娘は誘惑されなくちゃいけないの
この川べりであなたと
ビールを飲んだ だからここは好きな店

七月のきれいな晩だった
あなたの坐った椅子はあれ でも三人だった

小さな提灯がいくつもともり けむっていて
あなたは楽しい冗談をばらまいた

二人の時にはお説教ばかり
荒々しいことはなんにもしないで

でもわかるの わたしには
あなたの深いまなざしが

早くわたしの心に橋を架けて
別の誰かに架けられないうちに

わたし ためらわずに渡る
あなたのところへ

そうしたらもう後へ戻れない
跳ね橋のようにして

ゴッホの絵にあった
アルル地方の素朴で明るい跳ね橋!

娘は誘惑されなくちゃいけないの
それもあなたのようなひとから


茨木のり子 『あほらしい唄』

***

“だからここは好きな店”は“「この味が いいね」と 君が言ったから 七月六日は サラダ記念”と似てて、だから某T木嬢から以前メールがきた。

茨木のり子の詩集、私も買いました。「あほらしい唄」が好きなんですけど、読んでてふと、俵万智さんの短歌と似てるなと思って。


そのメールの結尾には、“娘は誘惑されなくちゃいけないの それもあなた(ふじぼうさん)のようなひとから”が、はーとまーくとともに引用されていた。

ということは、ない。

(;´Д`)

さらに、また別のbitchから(と書くとまるでT木嬢がbitchみたいだけどそれについては華麗にヌルーでおながいしまつ)、以前サラダ記念日の引用メールが。

「我だけを 想う男の つまらなさ 知りつつ君に それを望めり」

「え?おれ?」

「違いますw」

(;´Д`)



直在其中矣
論語の子路篇。

葉の君主が孔子に語った。
「私の治める郷土に、正直者の躬という人物がいる。躬の父が羊を盗んだときに、躬は正直に盗みの証人になったのである。」

孔子は言った。
「私の郷土にいる正直者はそれとは違います。父は子のために罪を隠し、子は父のために罪を隠す。“直きこと”はそういったなかにあるのです」


葉公語孔子曰、吾党有直躬者、其父攘羊、而子証之、孔子曰、吾党之直者異於是、父為子隠、子為父隠、直在其中矣



国内で海外MBA
日本にいながら海外MBA(Master of Business Administration)を取得できる。働きながら!という方はご参考までに。学位取得目的じゃなくて科目聴講ってのもあり。
(まぁ、L*.M.と違ってMBAは最終的に司法*験みたいな資格目的じゃないので、単に経営関係を学びたいだけなら国内の大学院でも十分かも。授業は英語じゃないかもしれんけど)

国内で取得できる海外MBA

[1] 英国(国立) University of Wales:英国国立ウェールズ大学経営大学院(wiki

[2] カナダ(州立) McGill University:マギル大学(wiki
※K本くんが卒業したトロ■ント大学と並ぶカナダのトップ大学。「北のハーバード」と呼ばれ、世界ランキング12位(The Times 2007)。

[3] 米国(州立)Temple University:テンプル大学(wiki

[4] オーストラリア(私立)Bond University:ボンド大学(wiki


<2ちゃんねる:国内MBA/MOTランキング>wwww


<ITmedia:社会人大学院 Index
■身につけたい能力・専門知識から探す
WEB・コンテンツ (3),情報セキュリティ (6),ロボット (3),経営・事業戦略 (37),起業 (12),マーケティング (20),会計・財務・ファイナンス (17),国際ビジネス (14),組織・人事 (5),ITビジネス戦略 (10),プロジェクトマネジメント (9),情報アーキテクト (8),コンサルティング (5),法律 (1),経済理論・比較的視点・犯罪学 (1),ITビジネス戦略 (1),社会学 (1),国際関係 (1),現代日本研究 (1),開発経済 (1),国際行政 (1),環境管理 (1),観光管理 (1)
■社会人の通いやすさから探す
教育訓練給付制度がある (15),土日や夜間で学べる (43),秋入学ができる (28),奨学金制度がある (31),サテライトキャンパスがある (11),長期間でマイペースに学べる (14),土日や夜間で学べる (2),奨学金制度がある (1),1年以内で修了できる (6),土曜や夜間で学べる (1) ,奨学金制度がある (1) ,秋入学ができる (1),24時間研究スペースが使用できる (1),昼夜開講制 (1),社会人向けに長期履修制度がある (1),1年または1.5年で修了できる (2),最短1.5年で修了可能(9月入学のみ) (1)



アメジョ
新入りの掃除機のセールスマンがとある家のドアをノックしました。
すると背の高い女性が出てきました。
彼女が何か言い始める前に、熱心なそのセールスマンは家に強引に押し入り、いきない黒い袋からどさっと牛の糞を居間のじゅうたんの上に落としました。

「聞いてください。新しいこの強力な掃除機を使って、これを綺麗にします。それが出来なかったら、この糞をこの私が食べてみせます」

と、熱心に営業を始めたのです。

それを聞いた住人の女性はこう尋ねました。

「チリソースかケチャップのどちらがいいかしら?」

その返事に驚いたセールスマンは「どうしてですか?」と尋ねました。

「この家の電気は切れているのよ」

***

これから結婚しようという若いカップルがいました。
ところが結婚式へ向かう途中で交通事故に遭い、ふと気づくとふたりとも天国の門の前に座っていたのです。
入国手続きを踏んでいる間、ふたりは天国でも結婚できるのだろうかと考え始めました。
そこでふたりの前に天使である聖ペテロが現れたとき、思い切ってそのことを尋ねてみました。
すると天使は「初めてのことなのでわかりません、ちょっと調べてきてもよいでしょうか」と言残して立ち去りました。

カップルは座ったまま、ひたすら待つことにしました。しかし2ヶ月が過ぎてもペテロは現れません。その間ふたりは天国での結婚について、とことん話し合うことにしました。
「永遠という側面から見るとどうだろうか?」
「もしこの結婚が上手くいかなかったら?」
「それでも永遠に離れることはできなかったら?」

ふたりはそんな風に考え始めたのです。

さらに一ヶ月が経ち、ようやくペテロが戻ってきました。彼はちょっとくたびれた様子でしたが二人にこう言いました。「返事はYES。天国でも結婚はできますよ」

二人は「それはよかった」と言った後、こう続けました。「二人で悩んでいたのですが、もし上手くいかなかったらどうなります?天国で離婚もできますか?」

するとペテロは顔を真赤にして怒りだし、持っていたクリップボードを投げ付けました。
恐れた二人が「どうしたのですか?」と尋ねると、ペテロはこう言い放ったのです。

「いいですか、神父でさえ探すのに3ヶ月もかかったのですよ。天国にいる弁護士を探すのに、いったいどれくらいかかるか想像つきますか?」





The Sixth Sense
来年6月のR*maは手続が間に合わん!と判明。

Σ(・ω・ノ)ノ!Σ(・ω・ノ)ノ!

Ph*ladelphiaからNYCはAmtrakで片道90分(45ドル)くらいでね、もうご近所さん。おまけにAmtrakは西海岸で2回乗ってて顔パスですよ、ええ。「よっ、車掌!」ってなもんですよ。車掌が何千人いるか知らんけどね。銀河鉄道999みたいに1人だって思い込んでっけどね。メーテル!鉄郎!あと、Ch*na Busだと片道150分(12ドル)。
もうね、これは惹かれるものがある。隔週でNYCに行くね。YW嬢もいるしね。あ、YW嬢、先日発行されたばかりの『AERA English/2011年1月号』に登場しててね、表紙に名前まで。生意気!

しっかし、アスレチックス、ふざけんなと。西海岸なんて絶対に行かんぞと。二度とな!単に他球団を妨害するためだけに岩隈をあんな扱いしやがって、ビリー、もう絶対に『マネー・ボール』なんぞ読まんぜよ!
まあね、ヤンキースがダルビッシュとって、レッドソックスがFA岩隈とってくれればいいよ。来年9月には間に合わんけどね…Dの友達も帰国しちゃってっけどね…

映画『The Sixth Sense』はPh*ladelphiaが舞台。『ロッキー』『12モンキーズ』もね。ドラマ『コールドケース』には思いっきりTの建物がデカい看板とともに出てたの見た。一瞬だけど。
([wiki]:フェラデ*フィアを舞台にした映画・テレビドラマ )


ま、いずれにせよ「ふじぼうさんの留学期間にあたしも遊びにいきますね♪」という申し出が後を勃たない。

「ローマに来るのなら、フィレンツェで待ち合わせるべきだね。『冷静と情熱』で二人が出会うのはフィレンチツェだよ。あおいと阿形順正がファックやりまくった最後の三日間」

「じゃあ、そうしましょう♪」

|∀・).。oO(…)



それにしても葉加瀬太郎の曲『冷静と情熱のあいだ』、これ、坂本龍一のアルバム“Beauty”の名曲『Amore』のパクリなんじゃ…いや、ま、オマージュって便利な言葉もあるけど…

ついでだけど、坂本龍一の『The Sheltering Sky』、やっぱいい…




女の絶望
伊藤比呂美(詩人)『女の絶望』。

そもそもセックスとは、ふたりでやってふたりでいい気持ちになるもんだ。そこをぐっとこらえて、女だけいい気持ちにさせようと思って男がひとりでがんばる。はい、それだけ。そんなのずるいって男のかたはいうでしょう。当然だ、あたしもそう思います。だけどそれがセックスの真実なんで。おあいにくさまです。

若い人っていうのは自爆みたいなセックスします。性欲というより『アタシはココに生きてる』というのを確かめるために。あたしにも身に覚えがあった。セックスしてんだかゲロ吐いてるんだかわかんないセックス、手首切ったりヤケ酒あおったりするかわりに、ま、ペニスを中に入れとこうかっていうセックス。快感なんかあるようでなくって、ないかと思うとあるんですね。だからまたやめられなくなっちゃう。切ないねぇ、こういう「ココでこんなコトしてるのはアタシに相違ありません」ってハンコ捺すかわりにおまんこ開いてる若い女の子。五十になれば、そんなハンコ捺さなくたってセックスできるんです、楽なんだ、これがまた。





死ぬまでに一度は言いたい言葉
「釣りはとっとけ」

「マスター、いつもの」

「みんな目を瞑れ。正直に手をあげろ」

「決められたレールの上なんてオレは走りたくねぇ」

「お客様の中に、お医者さんはおられますか?」

「お嬢さん、ハンカチ落としましたよ」

「いえいえ、名乗るほどのものではありません」

など





20代で読んでおくべき本は?
<ビジネスパーソンに聞く、20代で読んでおくべき本は?

1.『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』岩崎夏海
2.『マネジメント』ドラッカー
3.『28歳からのリアル』人生戦略会議
4.『金持ち父さん貧乏父さん』ロバート・キヨサキ
5.『7つの習慣―成功には原則があった!』スティーブン・R. コヴィー
6.『竜馬がゆく』
7.『20代に必ずやっておくべきこと―人生を拓く31の法則』中島孝志
8.『チーズはどこへ消えた?』スペンサー・ジョンソン
9.『ライ麦畑でつかまえて』J.D. サリンジャー(ここでは村上春樹訳版をリンクしておいた)
10.『人を動かす』デール・カーネギー

『ライ麦畑でつかまえて』でかろうじて救われてますね。迂回なら絶対にフーコーの『言葉と物 ― 人文科学の考古学』を薦めます。(買ってはいけません。図書館で借りてください。絶対に理解できませんから。でもその理解できなさがもの凄く重要なんです。100のうち1理解できたら勃起するか濡れます。3年くらいかけて読む気があるなら大枚を叩(はた)いて買いましょう。部屋にあるだけで気分が高揚します。N谷がドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー/資本主義と分裂症』を研*所の寮に持ってきてたのも同じ理由でしょう)

お金や人生設計なら(誰でも理解できる)橘玲『世界にひとつしかない「黄金の人生設計」』を推薦。

ところで、どうでもいいですが、いや、ほんとどうでもいいですが、ぼくの来年の目標は、「夏目漱石を全部読む!」です。本気です。10年来の夢なんです。全然本気じゃないってことかもしれません。

ヽ(´ー`)ノ


 


地頭と地肌
ぼくが夏に渡米する直前、デブYTさんからメールがきて、それは、外資系法律事務所に勤める彼のクライアントから「一般民事をやってる英語のできる弁*士を紹介してくれ」と頼まれたからふじぼうさんとK本さんを紹介しておきましたというもので、しかしいくらなんでもK本くんとぼくを並べるのは無理というものだ。

K本くんは、米国の高校を卒業し、カナダのトロント大学(国内1位、世界17位。カナダ首相4人及びノーベル賞受賞者8人を輩出)の物理学科を卒業した男だ。(おまけにその後、東大の院で数学を専攻して卒業したが「俺には数学の才能がない」と言って、しかしなぜだか司法試験に合格した後3年間サーフィンばっかして「俺にはサーフィンの才能がない」と言ってやむを得ず研*所に入ったという珍種で、TOをして「本当に地頭がいいひと」と言わしめた男)

これらの事実から、少なく見積もっても、ぼくの1000倍くらい英語ができて、50倍くらい頭が良くて、0.7倍くらいの毛髪量であることは明白であります、your honor.

YSの結婚パーティーのとき、「おお、K本くん、久しぶりやね。結局修*んときは飲む機会なかったねぇ」と言ったら、例の飄々とした語り口で「何言ってんですか、ふじぼうさんが飲み会セッティングして、でもゴ*キが風邪引いて来られなくなって、ヤ*イちゃんも女性独りだけ参加だと可哀想だってなって、『女が来ないからナシ!!』って自分で流しちゃったんじゃないですかw」と言われて、ああそういうこともあったなと思い出した。

K本くんは最近東京の事務所に移り、昨年設立された“Lawy■ers Network for Fore■igners”で活躍している。時々、同メーリスで名前を見るので、彼について書いてみたのである。



忘年会の参加希望は
本日金曜19日まで。M上主催の忘年会(yearend party)ね。

「両日の○×及び希望を書くべし」って言ってんのに、JKみたいに「いく」とだけメールしてくる、白鵬の連勝を止めてしまった稀勢の里クラスの大馬鹿者の対処をどうしてやろうかと。



現代における創造行為
映画監督、諏訪敦彦(すわのぶひろ)、『誰も必要としていないかもしれない、映画の可能性のために

晩年の黒澤明監督が立派な絵コンテを残されたりしているので、監督はまるで画家のように世界をイメージし、創造する作家であるという一般的なイメージが定着してしまったのかも知れないが、実は映画監督は近代的な作者という概念は当てはまらない存在だと思う。

映画は世界を創造するのではなく、ただ発見するのである。映画=キャメラは世界を個人の世界観にねじ伏せるよりも、受け入れる事に長けている。映画には作者のコントロールを越えた「世界」が侵入してくるし、作為を越えた思わぬ出来事や、構築された意味や物語からはみ出してしまう何かが映り込んでしまう。「ユキとニナ」において、ユキを演じたノエ・サンピの顔立ちは、当然私たちが創造したものではなくただ映っているに過ぎないが、その彼女の顔そのものがこの作品では重要な映画の内容でもある。だから誰がそれを創造したかというのは問えない、というのが映画なのである。

だから私はこの映画監督=作者という考え方がつまらない。映画はもっと開かれていて、みんながよってたかって、なんだかんだいいながら作り上げてしまう事ができる。そんな豊かさとおおらかさを持っているのではないか。きっと初期映画を興行として制作していた連中はそんな感じでワイワイ映画を作っていたんじゃないだろうか。

現代美術においては、作品という成果物が重要なのではなく、プロセスそのものが創造行為であると考えるようになった。素晴らしい才能を持った作者が、素晴らしい作品を作るのではなく、アーティストは現実に対して媒介者として関与し、多様な関係性を引き出すだけで、その結果についてはコントロールしようとはしない。それが現代の創造行為である。

なのに映画だけは、特に劇映画だけはいまだに監督が権力を握っているし、そのようなものとして見られてもいる。ひとが「私は一度映画を撮ってみたい」と言うとき、それは大勢のスタッフを号令ひとつで自分の意のままに動かす王になってみたいと言うのと同じ欲望を表しているだろう。もちろんそのような素晴らしい作家は存在し、これからも彼らの作品を映画ファンとして楽しむ事もできるであろう。ただ私は、どうのような社会が望ましいのかと自分に問うとき、王の君臨する社会であると答えたくない。みなが多様に対話する社会の可能性を求めたいし、自らの映画作りにおいて、映画が本来持っていたはずの開かれた可能性を模索してゆきたい。




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