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ビジネスとレイバーの違い
またまたJTから。

『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(内田樹)

マーケットのよいところは、“原則として”、クオリティのよいものをリーズナブルな価格で提供すれば、評価してもらえるということです。

自分があるビジネスモデルを創り出したとき、そのモデルが正しいか、正しくないかの検証が非常に速い。マーケットがすぐに応えを出してくれます。失敗したときに「私が正しくてマーケットが間違っていた」と言い張っても別に構わないんです。ただ、そう言う人はビジネスの世界からは退場しなければなりません。

人間が生きている中で、ビジネスほど「分かりやすい」ゲームはほかにありません。

愚かな人と利口な人がビジネスをしたら、必ず利口な人が成功する。正直な人間と不正直な人がビジネスをしたら、必ず正直な人間が成功する。クライアントの利益をまず配慮する人間と自分の利益をまず配慮する人間がビジネスをしたら、必ずクライアントに配慮する人間が成功する。

そういう点では、ビジネスはほかのどんな種類の人間的活動よりも「合理的」な世界でしょう。

気づいていない人が多いのですが、ビジネスの愉しさは、お金が儲かることではなく、何か新しいことをすると、その結果がすぐに出る、その「反応の速さ」にあります。これは、「マーケットは間違えない」という前提の下、全員が一つのルールに対して同意し参加しているゲームです。

ほかの人間関係はこれほどには分かりやすくはありません。

ビジネスは、自分自身が変化したり工夫したりしたことの結果がすぐに評価される。自分自身の仕事のクオリティがとりあえずすぐに検算できる世界です。

「ビジネス」というのは、そういうものです。

「レイバー」はそれとは違います。この二つは別物です。二つとも「仕事」と訳されますが、この二つは違うものです。

今の若い人たちの多くは、「仕事」というとレイバーしか知りません。

暮らしていける最低限のレイバーだけして、お金を稼いで後は好きなことをして暮らしたい。それなら、働くのは時間の空費であり、苦役でしょう。

そんなものなら嫌いで当然です。

「一律時給七五〇円」という賃金は人間を腐らせます。

だって、全員が時給七五〇円で働いて、人よりがんばっても、せいぜい「来月から時給七八〇円ね」という程度です。マニュアル化された、誰がやっても同じような仕事をあてがわれて、そこでは仕事のクオリティを高めたり、創意工夫を凝らしたりする余地がほとんどありません。だから、勤務期間の長さとか、遅刻の回数くらいしか差別化のデータがないのです。

やることは決まっている、うまくやっても別に誉められないし、決まった通りのことをしなかったら怒られる、そういうのがレイバーです。それはビジネスではありません。

こういうことを言うと怒る人がいるでしょうが、ぼく自身の経験から言っても、レイバー的なアルバイトからは、時給以外に何も得るものがありません。マニュアルがきちんと決まってるようなバイトの場合は、一〇年間やってもたぶんそれを通じて社会的なスキルが身につくとか、人間的な成長を遂げるということは期待できないでしょう。

ファーストフードやコンビニ業界のシステムが分かったり、そのダーティな裏面を知ったりする、という程度の情報は得られるかも知れませんが、それが人間的成長に資するということはほとんどないでしょう。

そういう仕事はビジネスではないからです。

レイバーであるけれども、ビジネスではない。

そして人間がその能力を吟味され、努力が報われ、才能が評価されるのはビジネスの場だけなのです。

人は自分が人間的な美質というものを持っていれば、必ず評価されるという、そういうマーケットの現場に身を置くべきです。自分がやったことがちゃんと反応として返ってくる環境です。

それは企業の規模、資本金とかは関係ありません。

では、ビジネスとレイバーの違いはどこにあるのか、それは「リスク」と「責任」ということにかかわってきます。

ビジネスにおいては、リスクを取る人間が決定を下します。

デシジョン・メイキングはリスク・テイキングと表裏一体です。

リスクを取ることと引き替えに決定権を受け取り、それが成功したら報酬が得られる。失敗したら責任を取らされる。

単純な話です。

「自分の責任持てる範囲でリスクを取ります」と言ったら、その範囲内で「その件に関しては君は決定していいよ」と任されます。そうやって、デシジョン・メイキングをして、その決定がうまくいった場合には、次の機会におけるリスク・テイクの範囲が拡がります。

「今度はここまでリスクを取ります」という申し出に対して、前よりも大きな決定権が交付されます。

リスク・テイクの範囲が拡がると、決定権を行使できる範囲が拡がる。

単純な話です。

でも、この単純な話がなかなか複雑なのです。

というのは、もうここまでの記述でお気づきでしょうが、優れたビジネスマンは「リスクを取る」と言いますが、凡庸なサラリーマンは「リスクを負う」と言うからです。

「リスクは負わされるものだ」というふうに思う人は、リスクをできるだけ回避しようとします。

確かにリスクは回避されますが、リスクを取らない人間は同時に決定権をも回避することになります。そういう人はビジネスには参加できません。

「俺がリスクを取る」と言った人がそのビジネスに関する決定権を持ち、リーダーになるのです。「リスクを負いたくない」と言ってリスクを取ることを忌避して、決定権を他人に譲った人間はレイバーを担当するしかありません。

ビジネスとレイバーの差は、ですから常雇いか臨時雇いの違いでも、時給やポストの格差でも、資本金の規模でもありません。その人が「リスクを取る」という決断をできるかどうか、その一点にかかっています。

(中略)

リスクというのはビジネスマンに限らず、およそ社会人にとっては忌避すべきものではなく、むしろ歓迎すべきものです。それは別に冒険心を持てとかベンチャー精神はたいせつだとかいうようなロマンティックな物語ではなく、きわめて日常的でシビアな「人としての基本」のことだとぼくは思っています。

ぼくがレイバーに明け暮れる人たちに言いたいことは、リスクのないところに決定権はなく、決定権のない人は責任の取りようがなく、責任を取らない人間は「信義」の上に成立する社会関係にはいつまで待ってもコミットすることができないだろうということです。




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