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「無能で真面目な人」は銃殺
人事部証言「代わりがきかぬ2割か、8割のその他大勢か」

人事部の告白「一流、二流、三流の分かれ目は」

うちの会社で活躍している社員を調査した(略)、たとえば「宿題をやっているときに、友達から遊びの誘いがありました。あなたはどうしますか」という質問もある。答えの選択肢には「宿題が終わってから遊びにいく」「宿題を放り投げて遊びにいく」というのがある。うちで活躍しているのは、宿題を放り投げて遊びにいくやつなんだ(笑)。つまり、楽しい話があれば、すぐに飛び乗るタイプが仕事でも成功している。


ありえる。

日本企業は「用済み社員」だらけ…。リストラ予備軍は40代バブル入社組

ドイツのワイマール共和国の参謀総長だったハンス・フォン・ゼークトは、軍人を有能か無能か、勤勉か怠惰かの4タイプに分け、

・有能で勤勉な人は参謀タイプ
・有能で怠惰な人は司令官タイプ
・無能で怠惰な人は連絡将校タイプ
・無能で勤勉な人は「銃殺」すべき

と言っている。

会社で言えば、真面目で無能な人は、上司が言ったことを自分で加工し、余計な味付けをして職場を混乱させる。


銃殺w

ま、上の記事で話してる方々が「その他8割」で「三流」で「実はリストラ対象」って可能性も十分あるわけで。

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神がみえなくなる時期
先日引用した斎藤環の文中で引用されていた中井久夫『アリアドネからの糸』。

※ぼくはこの本をまだ読んでいないけど、面白い文章を見つけたのでコピペってしまうです。


創作の全過程は、統合失調症の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。

これらにおいても権力欲あるいはキリスト教に言う傲慢(ヒュブリス)は最大の陥穽である。

逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。最も不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。それは、精神病患者の予後の指標の重要な一つがその友人の数、端的には来る年賀状の枚数であることと似た事態である。


(´-`).。oO(みすず書房の本って、1年に1冊くらいは読んでおきたい気が…、なんとなく…)

で、こんな文章に興味はないという人はココまでで読み終えていただくとして、上記文章の、それ以前の部分をうっかり見っけてしまったため以下にコピペっておくですので、興味がある方のみどうぞ。


創作の過程の最初は甘美ないざないである。創作者への道もまた、多くは甘美ないざないである。それは、統合失調症のごく初期にあるような、多くは対象の明快でない苦悩から脱出するためのいざないであることもあり、それゆえに、このいざないは、多く思春期にその最初の囁きを聞くのである。

多くの作家、詩人の思春期の作品が、後から見れば模倣あるいは幼稚でさえあるのに、気難しい大家でさえも激賞するのはこの甘美ないざないをその初期の作品に感得するからではないかと私は疑っている。思いつく例はポール・ヴァレリーの最初期詩編あるいはジッドの「アンドレ・ワルテルの手記」である。

このいざないがまだ訪れなかった例はリルケが初期に新聞に書きまくっていた悪達者な詩である。リルケはその後に一連の体験によってこのいざないを感じて再出発しえた希有な詩人である。

そうでない多くの作家は一種の芸能人であって、病跡学の対象になりえないほど幸福であるということもできる。芸能人には苦悩がないとはいわないが、おそらくそれは別種の苦悩である。多少の類似性はあるかもしれないが。

さらに多くの人は、この一時期にかいまみた幸福な地平を終生記憶にとどめて、己も詩人でありえたのだという幻想を頭の隅に残して生涯を終える。

なぜなら、この幸福のいざないは、白紙に直面して己に没入し、己に問い、己に譲る時、たちまち激しい無力感に転じて、人は己の無力、不毛、才の乏しさに直面する。かいまみられた幸福な地平はおおむね雲散霧消する。

彼は自己の全経験を投入して、この危機を乗り越えようとする。それは燃料が尽きて船体を気缶に投入しながら前進を続ける蒸気船に似ている。創作がこの段階に進んだ時、もはや新しい体験の素朴な流入は停止し、人は、それまでの内的資産のみを以て事にあたらなければならないこと、たとえば試験場に臨んで蔵書のすべてを持ち込めないことに似ている。

神秘化は最初の召命体験の後「乾いた不毛」を通過しなければならないとされる。神がみえなくなる砂漠的不毛の時期である。創作の道を選んだ者も、この砂漠的不毛の危機を通過しなければならないのがほとんど必然である。若きマラルメのように、この時期を「死んでいた」と実感する作家もありうる。

この時期、彼が呼び出す体験には次第に招かれざる、暗く、陰うつな、言語以前の、あるいは深く抑圧され、さらにはそれまでは解離されていたものが混じってくる。そして、言語はなお断片的であり、それ以上に、語の、句の、化学でいう意味でのフリー・ラディカル(自由基)が乱舞するいっぽう、表現面に打って出ると(つまり書こうとすると)「これはほんものではない」という感覚に圧倒される。

作家はなお前進していると思いつづけている。この前進感覚、そしていうにいわれぬ「一本の紅い導きの糸」から手を放さないことは死活的重要性を持つ。しかし、前進は同時に退行でもある。

もっとも危険なのは広義の権力欲である。これをもっとも警戒して「野心を完全に軽蔑すること」と明言しているのはポーである。もし、名声を、たとえ死後の名声であっても、求めるならば、すべては空しくなるだけでなく、精神病の危険が待ち構えている(「権力欲なくして妄想なし」とは私の定式である)。

創作の全過程は、統合失調症の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。これらにおいても権力欲あるいはキリスト教にいう傲慢(ヒュリプス)は最大の陥穽である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。それは、精神病患者の予後の指標の重要な一つがその友人の数、端的には来る年賀状の枚数であることと似た事態である。


おもしろすぎる。






文章を書くことは、常にある種の翻訳である。
(温尻 2009.9.24)

これも引用3回目くらいかもしれない。


斎藤環「『文学』の精神分析」。

中井久夫の文章について考える際に、その翻訳家としての顔にもふれないわけにはいかない。英語圏の貴重な文献の翻訳紹介において偉大な業績をもつことは言うまでもない。近年では被害者学の古典であるジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』の翻訳によって守備範囲の広さを印象づけた。しかし中井の名が一般に広く知られる最初のきっかけは、ギリシャ詞の翻訳による読売文学賞の受賞だった。

そればかりではない。ヴァレリーの『若きパルク』を、詳細な注解付きで出版する。ドイツ語圏ではコンラートの『分裂病のはじまり』の共訳があるし、リュムケの「プレコックス感(分裂病患者の独特の印象)」に関するオランダ語論文の翻訳も手がけている。インドネシアの学会ではわずか三日で初歩を修得したインドネシア語によって学会発表を行った。ヨーロッパのインテリを驚かすにはラテン語を口にすればいいと涼しい顔で言い放つこの「記憶の人」が、ロシア語だけは駄目でしたと告白したとしてもかえって凄味を増すばかりだ。

このように、中井の文体の基本には、常に「翻訳」の生理が浸透していると言っても過言ではない。これは中井自身が認めていることでもある。

少年時代の中井は、自分に「文体」がないことに、ひそかに悩んでいたのだという。しかし28歳の秋に(!)、中井ははじめて自分の文体を持ったと感じ、以後に書いた文章は自分の文章であると感じられるという。この過程には、中井がウィルス学を手がけていた二十代後半に、英文レポートを徹底して添削されながら提出し続けた経験が深く関係している。


「一カ国語しか知らない者は一カ国語も知らない者であるとゲーテは言う。文体の成立には外国語を経由するということにはひょっとすると深い意味があるのかもしれない。鴎外や漱石の場合には漢文と西洋語の二段階を通っている。外国語で書くということは深部構造の一種の煤払いになることかもしれず、あるいは深部構造の一般性すなわち個別言語を超えた部分を洗い出す作用があるのかもしれない」
(中井久夫『アリアドネからの糸』)


文体と外国語の関連性については深く同意する。ただし、その「外国語」とは、必ずしも日本語以外の言語ということを意味しない。すぐれた文学者が日本語の中に「外国語」を持ち込むように、「外国語」はある種の内面や経験のなかに胚胎される異化作用の核を意味するからだ。

そもそも私の考えでは、文章を書くことは、常にある種の翻訳である。



私が尊敬する作家は、そのほとんどが、外国語を翻訳するようにして小説を書いているように思われる。小説を書きしるすという行為は、言語という「他者」の中に穴をうがち、そこに「他者の他者」というひとつの幻想--「他者の他者」は存在しないのだから--をインストールしようと試みることではないか。それは予め不可能な試みであるのだが、言語が延命する上で不可欠な更新の契機にはなりうるだろう。

このとき作家は、言語を操る主体であると同時に、言語によって操られる媒介者でもある。ここで「媒介」されるものは、作家の内言語でもなければ個性でもない。小説のリアリティはそこにはない。むしろリアルは、媒介のフレームそのものにある。

有名すぎる例で気が引けるが、二葉亭四迷が初めて言文一致小説『浮雲』を練り上げる過程こそが、そのなによりの証である。「言文一致」は、口語と文語の垣根を単に取っ払う行為では決してない。四迷はこのスタイルを確立するに際して、寄席に通うなどして苦労しているのだが、ここで四迷は、小説を一度ロシア語で書いてから翻訳するという手法を試みたと言われている。だとすれば、言文一致とは、口語からロシア語を介して文語へと翻訳する試みだったのではないか。

中井久夫と同様、村上春樹も文体確立に際して、英語で書くことを利用したと言われるが、これらは決して特異な例ではない。かれらはたまたま「実在する外国語」を利用しただけなのだ。むしろ私は、すぐれた小説家であるほど、あたかも「不在の外国語」を翻訳するようにして彫琢された文体を持つに至ると考える。これはドゥルーズが、プルーストによる「傑作はある種の外国語で書かれる」との指摘に基づき、「言語の内部にひとつの外国語を発明する」と述べていることとほぼ同じことだ。


ふむふむ。


その結果生み出されたものは、たしかに自分の文体を備えてはいるけれども、すでに自身と同一のものではない。「これを書いたのは確かに自分だ。しかし、本当に自分がこれを書いたのだろうか」という懐疑と無縁な著者の文章を、私はたぶん信頼することができない。



書き始めるごとに「到底書けない」という無力感にさいなまれつつ第一歩を踏み出し、不安と緊張の圧力によって文章を絞り出していく中でようやく「核」を見出し、そこからは書くことの享楽になかば身を委ねつつゴールに到達すること。その結果完成するのは、まぎれもなく自分の文章で書かれた、しかし自分が書いたとは信じられない文章である。


ふむ。





私が文章を書くのは「まだ知らないこと」を知るためです。
(温尻 2008.9.11)

この引用や、引用の引用や、は4回目くらいかもしれない。
でも、本当に大切なことが凝縮されてるので、ぼくは何度も何度も読んでしまう。
ひとはなぜ文章を書くのか/批評とは何か/知はどう生成するのか/対話とは何か。


内田樹『態度が悪くてすみません―内なる「他者」との出会い』。
(まえがき:「まえがきが長くてすみません」)

私が文章を書くのは「何かみなさんに伝えたいこと」があるからではありません。あらかじめ頭の中に「伝えたいメッセージ」が存在していて、それを出力しているわけではありません。何が悲しくて「自分がもう知っていること」を印字するのに手間ひまをかける人間がおりましょう。

私が文章を書くのは「まだ知らないこと」を知るためです。自分が次にどんなことばを書くのか、それがそこまで書いたセンテンスとどうつながるかが「わからない」ときのあのめまいに似た感覚を求めて、私たちはことばを手探りしているのです。

それと同じように、「ウチダ、それは違うよ」と私に告げる人の言葉に私が注意深く耳を傾けることがあるとしたら、それはその人の頭の中にある考えを知るためではありません。だって、その人が本当に批評的に豊かな情報を発信しているとすれば、それはそのことを語りつつある本人もまだ知らないことであるはずだからです。

人の話を聴くというのは、自分が何を言いたいのかをまだ知らない人が口を開くその現場に立ち会うことです。知が生成している当の場所に立ち会うということです。

聴き手である私はこの生成プロセスの立会人であり、その人がいま語りつつある言葉が含んでいる「私についての知」の共同署名人です。なぜなら、その人が「自分は何を考えているのか」の探求を始めるきっかけをつくったのはほかならぬこの私の存在なんですから。

私たちが自分について知りたいと思うことは他者を経由してしか入手されない。これが肝心なことです。

私が自分について知りたいときには、これからいったい何を言うのか分からないままに読者に向かって語り始めなければなりません。
また、私が批評者の言葉に耳を傾けるのは、そこに「私がまだ知らない私についての知」が蔵されており、その共同署名人として、彼から召喚されて私がその場に立ち会っているからです。

真に批評的なことばは対話的なものです。そこには、「これから何を言おうとしているのかをまだ知らないで話し始める」人と、「これから何を聴き取ることになるのかまだわからないけど、それが『私がまだ知らない私についての知』であることを直感している」人の二人が立ち会うことが必要です。その条件が満たされたときにのみ、批評は生成的なものになる。私はそう考えています。


>私が文章を書くのは「まだ知らないこと」を知るためです。

>人の話を聴くというのは、自分が何を言いたいのかをまだ知らない人が口を開くその現場に立ち会うことです。

>私たちが自分について知りたいと思うことは他者を経由してしか入手されない。


ヽ(´ー`)ノ





食べ放題店ベスト12
【東京近辺】1000人が選んだ食べ放題店ベスト12

元商社マンが教える六本木のデートで使える店15選

Chikirinの日記2012-06-29 生活保護以外、すべての福祉を廃止したらどうかね?

・公的年金
・医療保険
・障害者福祉
・雇用対策
・その他の福祉
これらを全部廃止して、生活保護だけを残して一本化するという案です。


まったくその通りだと思う。再分配コストが無駄すぎて泣ける。

Chikirinの日記2010-05-06 日本がやるべきこと10個

1.ネット選挙の導入
2.一人一票の実現
3.道州制の導入
4.移民の積極的な受け入れ
5.外国語教育の早期化とインセンティブ強化
6.間接税中心に税制変更
7.あらゆる分野で規制を緩和
8.解雇規制の完全撤廃
9.市場機能の整備
10.65歳以上の生活保障


山崎元のマルチスコープ官製ファンドは「汚いカネ」「無駄な組織」

官製ファンド、ほんと無駄。



国際金融と精神障害
橘玲の小説『永遠の旅行者』を久しぶりに読んだ。

主人公の真鍋恭一(32歳)は、大学在学中に司法試験に合格し、大手渉外事務所で5年働き、突然事務所を辞めて、どの国にも納税義務を負わない「永遠の旅行者/Perpetual Traveler」となり、金融と法律の助言をしつつ香港・日本・ハワイを行き来しながら生きている。
ハワイにいる恭一に、老い先短い麻生騎一郎から依頼がくる。

「20億円の資産を孫娘に相続させたい。ただし一円も納税せずに。」

物語の舞台は東京・小田原・香港・ハワイ・ニューヨーク。

恭一は麻生老人の依頼を100%適法に実現する。ある決定的条件が整っていたという設定ではあるけど、それ以外にも多くの租税回避スキームが登場する。

(・д・)

経済小説と言われるジャンルがある。『ハゲタカ』の真山仁、「半沢直樹」の池井戸潤、『バイアウト』の幸田真音、『Cの福音』の楡周平、『巨大投資銀行』の黒木亮。全て読んだことがあるけれど、彼ら彼女らは小説家ではなく作家で、橘玲だけが小説家といえる。



2013年の露骨さ
前橋育英高校が優勝した年としてではなく、サイン盗み(サイン伝達)とカット打法の是非について侃々諤々された年として記憶される、かもしれない、第95回全国高校野球選手権大会。

サイン盗み。
1998年12月に高校野球では禁止された。それまでは禁止されていなかった。

カット打法。
問題とされた件のカット打法をyoutubeで観たけど、素人目ながら、あれはバントとみなされるものじゃないと思われ。

だから、いずれもそこまで目くじらを立てるほどのことじゃぁない。

ただ、あの露骨さが、この洗練された成熟国家で「見てらんない…」と感じられたのだ、といえるかもしれない。

(´_ゝ`)

露骨さ。

それは、たとえば、ちょと混んでる電車内でうっとりしながらキスしてる(もちろん「あたしら、かなりイケてるよね(はーと)」と、あろうことか他者の視線を意識に入れつつ、思い込んでる)ブサイクなカップルみたいなもの。

つまり、「恥ずかしくて、普通の感覚じゃ、やらないよね」という、それが、露骨さ。

高野連に苦情や擁護の電話をしてしまう露骨さ、やんや報道してしまう露骨さ、ブログで書いてしまう露骨さ、そう、もう露骨さって、関係するあらゆるものを絡め取ってしまう厄介なモンなわけです。

われわれは、思い出せます、電車内のキスブサカポーを目撃したとき、「すいません、同じTokyoに住んでることを申し訳なく、世界に対して謝罪したい」と不条理な罪悪感を誘発する、あれ、あれです。

(´_ゝ`)

菊池雄星と大谷翔平という、素晴らしい天才投手を輩出してきた強豪高校は、それなりのノブレス・オブリージュってのがねぇ、ということなのかもしれない。



意図と結果
国は、国民の雇用確保を目的で、解雇を厳しく規制した。
会社は、解雇が難しいことから、正社員としての雇用を控えるようになった。
多くの国民が非正規雇用者となった。


国は、市民が多重債務に陥ることを防止する目的で、貸金業務について金利を規制し、さらに総量規制までした。
消費者金融でお金を借りられなくなった人たちは、より金利の高い闇金に流れた。
その多くが超高金利に苦しみ、また、非人道的な取り立てにあっている。


国は、個性重視の教育を行う目的で、ゆとり教育を導入した。
金融資本を有する親は子供を塾に通わせ、そうでない親は(略)。
格差が拡大再生産され、多くの子供にとって個性を発揮する云々以前の状況になった。


あらゆる制度には長所と短所がある。だから、制度を創設したり改定したりした結果として何らかの短所が生じるのは当然で、そのことに問題はない。
しかし、「A」という状況を改善するためにある制度を創設・改定した結果、「より酷いA」という状況になることは喜劇であり、そして、多くの場合にそれらの創設・改定が『善意』によってなされることは、喜劇性をいっそう高める。




プロの世界の醍醐味
日米通算4000本安打達成のイチローが会見(全文掲載)/一問一答


質問:1本のヒットの大切さ。現在、1本のヒットを打つということ

「プロの世界でやっている、どの世界でも同じだと思うんですけど、記憶に残っているのは、上手くいったことではなくて、上手く行かなかったことなんですよね。その記憶が強く残るから、ストレスを関わるわけですよね。これは、アマチュアで楽しく野球をやっていれば、いいことばっか残る。でも、楽しいだけだと思うんですよね。コレはどの世界も同じこと。皆さんも同じだと思うんですよね。そのストレスを抱えた中で、瞬間的に喜びが訪れる、そしてはかなく消えていく、みたいな。それが、プロの世界の醍醐味でもあると思うんですけど、もっと楽しい記憶が残ったらいいのになあというふうに常に思っていますけど、きっとないんだろうなあと思います」


質問:諦めるという瞬間はあるのか?

「きわどいとこきますね。これは駄目だな、言わないほうが良いと思いますね。ちょっとややこしい言い方になりますけど、ま、諦められないんですよ。色んな事は。諦められないという自分を、がいる事を、諦めるという事ですかね。諦められない自分がずっとそこにい事はしょうがないと言うふうに諦める。なんか、野球に関して妥協はできないので、まあもうちょっと、なんだろうな、ま、休みの日は休め、こっちの人みんな休むじゃないですか、そういう事ができないんですね僕は、ま、そういう自分がいる事は仕方のない事なので、そうやって諦めます」



カンガエル
考える、というのは、超高速で情報処理してるときみたいなスピード感や高揚感があるのとはまったくちがう。ハムスターが回し車(ハムスターホイール)でクルクルクルクルと気持ちよさそうに回ってるのとはちがう。スルスルスルスルとか、ギュンギュンギュンギュンとか、サラサラサラサラとか、シャーシャーシャーシャーとか、そんなんじゃない。つっかえつっかえ、どもるような、ガクッガクッギギギみたいな、そんなだ。そこにあるのは爽快さや心地よさじゃなくて、不快さや痛み。



承認不安時代?
梅田カズヒコ氏『認められたい私、認めてくれない社会~「承認不安時代」の生き方~』

現代において若者を悩ませる最大の問題は経済的不安ではない。「認められない」という不安なのだ。
この連載では、「承認」をキーワードに、特に若者の間で広がる現代社会の生きづらさの正体を考える。


雨宮まゆ氏『好きに生きると結婚が遠のく?』

私が求めていたのは、簡単に言えば「自己承認」というものです。それが仕事で得られないから結婚に逃げ込みたいとか、結婚しても満たされなそうだから仕事をするしかないとかいうのは、「自己承認の手段として何を選ぶか」という考え方をしていたからに他なりません。


小野美由紀氏『レビュー:村上龍「逃げる中高年、欲望のない若者たち」』

90年代まではセックスに帰着していた欲望は、現代においても、セックスという行為に帰着しないかもしれないけど、もっとマイルドな形で若者全体を常に覆っている。それは、「誰かと一緒にいたい、誰かに存在を認めてほしい、誰かと楽しくやりたい」という、人とつながりたい欲望だ。現代の若者の欲望は、この一点のみに集約しているように、私には見える。


ヘーゲル(1770年-1831年):「ひとは常に他者の承認を求めて生きている。」

(・д・)

承認欲求。遠い昔からその概念は存在したのに、1990年以降、日本で(特に若い世代において)めっちゃ強調されるようになった。

なぜだろう。

最近の若者は常にスマホをいじってる。どこにいてもスマホをいじってる。
ぼくが若者だった頃、スマホなんてなかったので、みんなチンポをいじってた。何をいじるよりもチンポをいじってる時間が長かった。

ココに何か重要なヒントが、隠されているわけがないよね。



デフレ下での資産運用
デフレというのは、「モノ」の価格(物価)が下がるということで、つまりそれは「カネ」の価値が上がるということ。

だからデフレ状況下での資産運用は「預貯金」だけで十分だった。預貯金しておくだけで資産価値が勝手に増えていくのだから。(日本はこの20年間デフレだったので、資産運用なんて必要なかった)

しかしこれから日本経済がインフレになってくると、預貯金しておくだけでは資産価値が下がっていくだけなので、積極的な資産運用が必要となる、と、いちおういえる、けれど、もちろんリスクは伴う。

(・д・)

保有資産を増やすには、収入を増やすか、支出を減らすかのいずれかだ。

資産運用で、例えば月10万円(1年で120万円/10年で1,200万円/30年で3,600万円)の収入を増やすのは、そう簡単じゃない。
原資が1,000万円だと、年利12%で運用しないといけない。単利としてもほぼ不可能だ。
原資が2,000万円でも年利6%で運用しないといけない。運良く数年は運用できても、30年間に渡ってそれを継続するのは難しい。

つまり、資産運用で月10万円ぽっちのお金を増やすことすらほぼ不可能だということだ。

しかし、「月10万ぽっち」とぼくたちが思えるのは、「働けば月10万ぽっちは余裕で稼げる」からで、結論としては、専業主婦がいる家庭ならその主婦をパートにでも出すのが最も簡単(かつ無リスク)な方法だといえる。あるいは、夕方5時以降の残業を禁止されてるサラリーマンなら帰宅途中のコンビニで1日4時間バイトするとか。

とにもかくにも、資産運用でお金を稼ぐのはとても難しいし、支出を月10万削るのもまた難しいけれど、労働でお金を稼ぐのは無リスクで極めて簡単だという真理。

(・д・)

人々が資産運用する際の手数料で食ってる金融業界は、今後徐々にインフレになれば「資産運用!NISA口座!」と煽りまくるだろう。

冷たーい視線を浴びせておくのが賢明。

(・д・)ツメシボ!




消えるアイデア
ふとアイデアが浮かんだり、着想を得たり、何かが見えたり、そんなとき、瞬時に急速潜行して暗闇の中で1秒すんごい集中してそのアイデアを言語にしたり映像にしたりして、つまりカタチにして、んでガシっと捕まえて、その場ですぐにメモをとらないと、そのアイデアはもう戻ってこない。
これは誰もが経験することだと思う。

いろんなことを考えて考えて、情報を収集して考えて、その何時間か後に、あるいは何年か後に、ふとアイデアが浮かぶ。キター!!!!のに、上の方法をとらないと、消えてしまったアイデアは戻ってこない。なぜだ。ヒドイよ神様、あんまりだ。

ちなみに、ぼくの場合、最もアイデアが浮かぶのは、ぼーっと煙草を吸ってるとき。それも、座ってるときや寝ころんでるときじゃなくて、立って喫煙してるとき。
あとは、ぼーっと歩いてるとき。

足とか足の筋肉なのか、姿勢なのか、バランスなのか、どれが肝なのか分からないけど、立ってるときなんだよなぁ。

( ´∀`)ダヨナァ



小説という装置
こないだ刊行された『柄谷行人蓮實重彦全対話』をとりあえず読んでみた。なんとなく読む義務があるような気がして…。

なにより驚くのが、講談社文芸文庫の値付け。540ページの文庫本に2200円。えらい強気だな、おい。

蓮實重彦。

小説という装置は、おそらく小説家にとってさえ、それが何に役立つのか見当もつかない粗暴な装置であり、であるがゆえに小説は自由なのです。批評家は、使用方法もわからぬままにその装置を作動させる。それが小説を擁護するということの意味なのだと思います。




1995年のドンッ♪
自分の限界がどこまでかを知るために
僕は生きてる訳じゃない

だけど 新しい扉を開け 海に出れば
波の彼方にちゃんと果てを感じられる

(・д・)

後悔少々、罪少々。

(・д・)

はい、My Little Lover『Hello, Again ~昔からある場所~』ですね。正解。

歌詞/作詞:小林武史 作曲:藤井謙二 & 小林武史





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